見出し画像

シン・仮面ライダーはシンではなくリメイクだった

結論、シン・仮面ライダーではなく仮面ライダーリメイクだった。
内容は初代仮面ライダーを踏襲したような内容。
面白かったのはショッカーの理念。
ショッカーは「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」の略称で、「計算機的知識を組み込んだ改造による持続可能な幸福の組織」つまりAIを使って持続可能な幸福を追求する組織ということ。
具体的には、絶望を抱えた人間を救うが、最大多数の最大幸福は否定するという理念。
これは今風に言えば無敵の人救済支援であり、アファーマティブアクションのようなもので、結構この理念には唸った。
なぜなら、平成初期から始まり仮面ライダーアマゾンズで決定的となった、全人類は救えないから身の回りの人だけでも助けるという正義の側の主張と似ているからだ。
正義の側の、身の回りの人だけ救う恣意性と、本作のショッカーの、恵まれない人を優先的に(恣意的に)救う、の何が違うのか?を突きつけてくるような始まりだった。
が、ここからこのテーマが深掘りされることはなく、個性的なオーグとの戦いや昭和のライダーのトンマナ、演出を踏襲したただのリメイクだけに終わった。
AIも出てくるがテーマだけ打ち出し深掘りもなく終わった。
最後のボスのオーグも過去のトラウマからの解放という人類補完計画的な発想に囚われていたのを解いて終わり、主人公たちの思いは仮面に託され、いつでも記憶を覗けるという、仮面がVRゴーグルのようにして人類補完計画が達成できるかのようなオチで終わった。
唯一個人的に感じ取れたのは、不便さや食べること、ツーリングなど、一見ムダに見えることこそが幸せで、人間はAIと違うところは非合理的なところで幸せを感じられるということ?と思ったが、わりとありふれた一般論だ。

なので、ショッカーという組織が何を伝えたかったのか、またシン・仮面ライダーを面白くするならこう、というのを想像していきたいと思う。
今回のショッカーは、悲しみを無くして多幸感で洗脳しようとするあたり、無敵の人を優先して救おうとするあたり、比喩的には安倍元首相を銃撃した山上容疑者のような存在を救える統一教会のような存在を描きたかったのかなと。
でもそれは無理筋で、結局独りよがりの正義は他の正義とぶつかり対立して終わる。
そしてそのことはすでに平成ライダーやダークナイトで描き尽くされている。
現代はそのような比喩すら必要なく、Twitterを見ればわかるように、男性は女性との食事でおごるべきか論争や、駅のストリートピアノはうるさいから撤去すべきか論争、スープストックの離乳食無料は子連れ優遇なのか論争など、個人的快楽の最大化を優先すべきか最大多数の最大幸福を優先すべきか、まさにこういうショッカーたちの争いが起きている。
一昔前この事態を予想していた作品は素晴らしいと思う。
マイケル・サンデル教授のこれからの正義の話をしようという本でも、最大多数の最大幸福・リベラリズム・美徳の涵養の3つの観点で議論が行われると解説していたがまさにその通り。
では、次の想像力として、次の時代の正義って何なのか?ここの発想が本作には無かった。(逆にもうこの観点から正義を語るのは不可能なのかもしれない)

で、もう一つ気になったのは、変身の意味の再定義が無かったこと。
昔は力を得る=大人になる、の比喩だったと思う。
そこから平成になり、仮面ライダー電王あたりから、変身=コミュニケーション能力の増大化、の比喩になったと思う。
で、本作は?というと、昭和のリメイクなので特に変身の再定義はされていない。
現代的には、経済的成功を収める=意識高い系ビジネスマンになる、という比喩もできそうだが、それは鬼滅の刃における鬼の定義がそれに該当するのですでにやられているし、むしろショッカーの定義に近い想像力になってしまう。
自分だったら、相手の思うことを翻訳できる力を手に入れる、ガンダムでいうニュータイプ的なテレパシー能力と定義したら面白いかと思ったが、あまり平成のコミュニケーション能力の増大化と変わらないか。。

なのでまとめると、シン・仮面ライダーは仮面ライダーの新シリーズではなくリメイクだった。
シンだったのはシン・ゴジラだけで、ゴジラの定義を原爆から原発に再定義したアクロバティックさを最後に、エヴァもウルトラマンもシンではなくリメイクだった。以上。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?