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サンパウロ出張の辛さ

ある日、ドバイ勤務を終えて帰国してみると、2週間後にサンパウロに飛んでくれとのこと。は?と頭の中が混乱した。一体何の担当になったのかも分からず、特別なパスポートを取り直して、ビザをもらう手続きを部下のみんなが一生懸命やってくれた。まるでさっさと追い出されるように(笑)
飛行機は、過去にアメリカはいい思い出もなく、9.11以降はアメリカは経由でも嫌なので、馴れたドバイ経由にした。これが地獄の始まりだった。この道で2年間南米に通うことになったのだ。

成田からドバイまでだいたい12時間、ドバイで3時間の乗り継ぎ時間。ここまでは通いなれた道であり、歳のせいで多少きついがなんとかなった。
ドバイからアラビア半島を横断し、紅海を渡り、いよいよアフリカ大陸を笠懸に飛ぶ。アフリカ大陸から南大西洋に入るまで7時間で、ようやく半分の距離を来たことになる。ここら辺で席にじっと座って居られなくなる。飲めないのにバーカウンターに行ってトマトジュースにウースターソースとタバスコ入れて飲みながらCAさんと話したり、用も無いのにトイレに行くようにして通路をうろうろ運動する。
見かねたCAさんが、おとなしく席に座ってくれたら特製ビリヤニを出すとの誘惑をしてきた。おまけにビリヤニに合う高級ウイスキー付きだと。これは睡眠薬作戦だと気付いたが、乗ることにした(笑)

ビリヤニ&ウイスキーw

一眠りして目覚めてもまだ後4時間もある。アトランタ経由にしておけばよかったと、ちょっぴり後悔した。

サンパウロに着いて、1Fの到着ロビーは危険なので、2Fの出発ロビーで支局の同僚が車で迎えに来ていた。1Fはよく強盗に合うらしい。迎えの車は防弾車かと聞くと、そうじゃないと言う。夜中の交差点は赤でも停まらずに突っ走るのが良いらしい。中東では勝手知ったところであり、夜でも怖くないが、初めてのサンパウロは昼でも怖い思いをした。支局では、昼間でも歩いてはダメな通りや行ってはダメなエリアなど、細かい注意を受けた。幸い宿泊ホテルが仕事の会場であり、日中は外に出ることは無かった。

会議では、南米じゅうから日系人関係者が集まり、2日間の会議を終えて、本務の地方都市へ飛ぶこととなった。500kmを飛行機で、そこから100kmを車で赤い大地のフリーウエーを飛ばして奥地に入る。

赤い大地のブラジル奥地

日系人も今は1世から8世ぐらいまで拡がっている。会議には1世のお年寄りも参加しており、おばあちゃんが自分にカタコトの日本語で話してくるが、会議ではポルトガル語になり、もうブラジル人になってしまったんだなと、時の流れの無常を感じた。

ブラジルの六本木w

帰りしなに、そのおばあちゃんが、私たちを見捨てずに日本からよく来てくれたと感謝しつつ、枯れた手で自分の手を握りしめ、せめて死ぬときぐらいは日本の土を踏みたいと、ポツリと言い残して去って行った。

移住は、それまでハワイや北米を中心に行われていたが、今でも米国で流行している黄禍の差別に合い、公式には1908年から南米移住が始まった。

その時に両親に手を引かれて渡って行った1世のお年寄りが、ブラジルの地においてブラジルに同化してしまい、日本には遂に帰れず南米の地で朽ち果てていく姿を見た。
飛行機の旅よりも、この悲しみの目をした老婦人の望郷の姿を見たのが一番辛かった。(了)

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