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納得できる取捨選択

何かをしなければならない。

そんな風にあんたも漠然と不安に思うことってあるかい?

システムエンジニアをまっとうに技術屋としてこなそうと思うと、その技術の進歩の速さに全くついていけない部分がどうしても出てくる。

この細分化された技術の発展に対して、ゼネラリストとして全ての枝葉にまで思いを馳せることは困難を極めている。

結果としては全方位に意識を向けるのはやめて何らかのスキルに特化して伸ばしていくしか無い。
でも、その選択は何かを捨てる覚悟を持つということと同じことなんだよね。

今回は捨てる勇気ってやつについて考えてみる回だ。

育ててきたものを切り捨てる勇気。結構な決断なんだよな。

俺が新人だった頃の技術

俺が新人だった20数年前。その頃はクラサバと呼ばれる技術が花盛りのご時世だった。

クラサバというのはクライアント・サーバシステムの略で、それまで主流だったオフコンやらホストやらの一極集中型の仕組みから、高性能化してきたクライアント(直接操作するパソコンのこと)側に処理を分散させてしまいましょうっていう思想に基づいた技術だった。

具体的にはデータを保持するデータベースの機能だけをサーバにもたせておいて、そのデータの処理部分とか、加工部分をクライアントに処理させるってわけだ。

クラサバの技術は、結構な期間続いた気はするけれども、それでも10年は持たなかった。
すぐにブラウザを用いたシステムに鞍替えされていったからだ。

その当時、俺はクラサバの仕組みを作るためにPowerBuilderという開発環境および言語を使って開発をしていた。
今でも色んなものづくりを考えるときのイメージの源泉がそこにはある。

ところが、そのPowerBuilderがいかに優れた環境であっても、今となってはその技術を使える人の数は減る一方だ。

身につけた技術を捨てるという選択

そうなってくると、もはやPowerBuilderをベースとした開発経験ってやつの市場価値はどんどん下がってくる。

変わって採用されてきているのはJavaを中心とした開発スキルだ。

一口にJavaと言っても、採用するフレームワークによって開発の進め方は全く様相を変えてくる。

Strutsのようなフレームワークでやる場合と、独自路線のフレームワークを採用するのではやり方が違うのは当たり前だよな。

大事なのは技術に固執しないことなんだと思う。
それを言っちまったら、技術をないがしろにするって意味だから、技術屋としての敗北を意味するんじゃないか?
もしかしたら、あんたはそう言うかもしれない。

でも、ある技術を捨てるってのは、俺たちに与えられた時間を何に割り当てるかってことなんだ。

俺たちに与えられた時間は有限だ。
ある意味時間をどう使うかというのは、命をどう使うかということと等しい。

俺たちは自分たちが技術屋であり続けるために、自分の命を常に新しいなにかにつぎ込んでいく必要がある。

技術の世界に生きるというのはそういう意味なんだろう。

命の使い道

でもそこでまた思う。

俺たちは技術屋という顔に、どうして固執しているんだろう?
その固執は俺が生きている上で、楽しめることの幅を制限してしまってはいないだろうか?

もしかしたら、もっと多くのことを出来るんじゃないか?
もっと楽しむことが出来るんじゃないか?

そう考え始めた数年前。俺は色んなことに挑戦を始めてみている。

個人輸入みたいなこともやってみた。
サイトを立ち上げることもやってみた。

そして、今。

このnoteを書いてみている。
もっと面白いことが出来ないかを考えながらこのnoteを書いてみている。

インターネットという環境は、思った以上に俺たちに出来ることを増やしてくれている。
だったら、それに挑戦するってのも悪くない発想だと思わないか?

俺たちの命は有限なんだ。

だからこそ、納得行く命の使い方をしていきたいもんだよな?

なあ、あんたはどうだい?

今日は何に挑戦していこうか?

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