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正義の感覚をさらすこと

あんたは「それは違う」って思ったことを素直に言えているかい?

世の中、いろんなことが起きる。ニュースには「それは違う」って思うようなことを連日出てきている。
まあ、ニュースなんてものは俺たちを刺激することをその道のプロたちがこぞって探してきているんだから、それもそうだと思うけれどね。

ポイントは俺たちが「それは違う」と言っているのを聞いてくれている相手の存在だ。

今回は、俺たちが俺たちの思うママに話をすることについて、ちょっと掘り下げてみる回だ。

俺たちは、いろんな人々に助けられているんだよな。ホント。

俺たちが「違う」と思うこと

実際、今の世の中では俺たちが「違う」と思うことが満ち溢れている。

ニュースをちょろっと拾うだけでもものすごい数の「違う」が飛び交っているよな?

あんたももしかしたらテレビのニュースに向かって、「そりゃないだろ」って話しかけてしまうタイプかい?

最近でこそないが、テレビをまっとうに見ていたときの俺がそれだった。

俺たちの中には俺たちなりの経験に裏打ちされた正義ってやつがある。
正義ってのは、サピエンス全史を読んだあんたならわかってくれると思うが、ヒトが作り上げた虚構の一つだ。

ヒトは正義という共通概念を信じて、その共通概念とともにあることで社会が安定し、自分たちの生活が安定するという神話を信じ続けてきている。

ところが、正義なんてものは「これが正義ですよ~」なんて物理的に観測できるなにかがあるわけじゃない。

あくまで、ヒトが作り上げた概念に過ぎないってわけだ。

その虚構である正義について、俺たちは経験を積み重ね自分なりの正義ってやつを形作っている。
そして、その自分なりの正義と世の中の出来事を比べて「違う」だと「正しい」だのという感想を持つ様になる。

つまりは俺たちの「違う」は俺たちの経験の集約点ってわけだ。

「違う」を聞いてくれるヤツ

ところが、正義が俺たちの経験の集約点である以上は、本質的にその正義を共有できるヤツってのはレアだ。

自分の正義の感覚とぴったり一致するような正義を持っているヤツなんてのは正義が経験の集約点である以上はありえない。
誰でも自分と全くおんなじ経験をしているわけじゃないから、当たり前だよな。

それでも、その正義のすり合わせってやつは、結構重要だ。

なにしろ、正義ってのは社会の安定のための概念なんだから、おなじ安定を求めているヤツらと協力することで、おんなじ社会秩序を目指せるってもんだからな。

俺はこう思うんだよな。あんたはどう思う?

そんなやり取りで自分たちの経験を交換する。
そんなやり取りが俺たちを結束させていく。
正義ってのは、俺たちを仲間にすることができる大切なツールってわけだ。

でもそのためには相手の「違う」ってのを聞くことがどうしても避けることが出来ないことになってくる。

相手と自分が全く同じではないのだから、自分との違いを受け入れるってのが何よりも大切だ。
感情的に「それは違う」と訴えても相手の感覚を変えることも出来ないし、自分の感覚を相手の意見を取り込んで拡張することも出来ない。

俺たちは、俺たちの正義の感覚を常に客観的に捉えていかないと行けないってことなんだと思うんだ。

自分の正義を外から眺める

実際、自分の正義ってやつはどうしても主観的に捉えてしまうものだ。

そりゃあ正義が自分の経験の先にあるものなんだから当たり前なんだけどな。

でもそれだと、俺たちは俺たちの仲間と正義を共有することが出来ない。
つまり仲間と協力できないってことになる。

なので、俺たちは俺たちの中の正義を客観的に捉える必要がある。

それにはどうすればいいのか?

地道な話だけれど、俺たちは俺たちの正義を言葉にして発信することで客観性を手に入れられるんじゃないかね?

SNSでもブログでも何でもいい。

あんたの正義を世の中にさらしてみる。
そうすることで、あんたの正義に「違う」と言ってくれる仲間を手に入れる可能性がはじめて出てくる。

あんたの正義を否定してくれるヤツ。
それこそがあんたが求めて止まない仲間なのかもしれないぜ?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちと違うヤツらをどこまで仲間にできるんだろうな?

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