「わびさび」が必要とされる意味
突然だがわびさびって言葉、あんたも知っているよな?
最近、家族がハマっている本があって、その中でわびさびってやつの意味に触れられていた。
俺の感覚としては「わびさび?あれだろお寺や神社みてふは~んっていうあれだろ?」くらいにしか捉えていなかったので、あらためて考えてみると、きちんと言葉にできていないことがその本を読んで俺が感じたことだった。
今回はこのわびさびって言葉を改めて確認した上で、この情報氾濫時代のわびさびってやつが何を意味しているのか?ってのに思いをはせる回だ。
ちっと観念的な話になっちまうが、付き合ってくれよな?
わびってなんだ?
まあ、改めて言うのがいかがなものかってもんだが、わびさびって言葉は「わび」と「さび」に分かれる。
この「わび」ってやつから確認していこう。
茶道・俳諧などにおける美的理念の一。簡素の中に見いだされる清澄・閑寂な趣。中世以降に形成された美意識で、特に茶の湯で重視された。
出展:goo辞書
なるほど。まずわびに必要な要素には「簡素」「清澄(せいちょう)」「閑寂(かんじゃく)」ってキーワードがあるわけだな。
簡素はわかるよな。シンプルってことだ。
清澄ってのはちっと難しい。そういうときは辞書だ。
[名・形動]澄みきっていて清らかなこと。また、そのさま。「清澄な山の空気」
出展:goo辞書
なるほど。字面の通り清らかなことなんだな。
閑寂も難しいな。
もの静かで趣のあること。ひっそりとして落ち着いていること。また、そのさま。かんせき。「閑寂な郊外の住宅街」
出展:goo辞書
つまりは、なんだ。わびってのはシンプルの中に清らかさと物静かさを魅力として感じることって話だな。
さびってなんだ?
わびに対して、さびってのはわりかしイメージしやすい。
古びて味わいのあること。枯れた渋い趣。「寂のある茶碗」
出展:goo辞書
古びていること。つまりは歴史ってのが背景にある味わいってことだな。
結果、わびさびってのはシンプルの中にある清らかさと物静かさと古めかしさの中にある味わいを魅力として表現した言葉ってことだな。
魅力を含んでいるのは「シンプルさ」と「古めかしさ」。
含まれている魅力は「清らかさ」「物静かさ」「味わい」ってことだ。
今の世の中で「シンプル」であるということ
この情報化社会、シンプルであるってことは非常に難しいことだ。
ありとあらゆるものに付加価値が載せられ、ありとあらゆるものにオプションがついている現在、自分にとって必要最低限なものってやつを正確に理解できている人間ってのはレアだ。
レアではあるが、確実に居る。
それは堀江貴文さんや西野亮廣さんのような「自分にとっての目的」を明確に認識できている人々だ。
そういう人々は得てして「シンプル」を手に入れていることが多いようだ。
堀江貴文さんはホテルぐらしを続けて、まったく家というものを持たない生き方をしている。
西野亮廣さんも全く収益性が見えていないような事業を含めてお金を投資し続けて、自分の手元にはほとんど残していないと聞く。
自分にとって必要なものを正確に理解しているからこそ、いらないものをこれでもかというくらいに削ぎ落としていっている。
本人たちがそれをどう思っているかというよりも、彼らの生き方を見た俺の感じ方に過ぎないんだが、彼らの生き様は「わび」そのものだと思わないか?
削ぎ落とされた身軽な身体で、自分たちの目的に邁進している姿は「清らかさ」ってのを感じないかい?
……「物静かしさ」はどこに消えたというあんたの意見はごもっともだけどね。
あ、でもよく考えたら堀江貴文さんも西野亮廣さんも感情で話すタイプではないから当てはまっているのか?
今の時代で「古めかしさ」を求める意味
次に「さび」側を考えてみよう。
古めかしさの中の味わい。これが「さび」だったね。
今の何もかもが新しくアップデートし続けられている世の中において、「古めかしさ」の価値ってやつを感じる人々は一定数いる。
これはなぜなのか?
これは俺の感じていることではあるんだけれども、その「古めかしさ」の持つ魅力、つまり味わいってのは、それを感じる人にとっての地面なんじゃないかと思うんだ。
ちっと何言ってんのかわからないってサンドウィッチマンの鉄板のフレーズをいいながらどっか行っちまう前に聞いてくれよ。
今の世の中の変化のスピードは今あらためて言うまでもなく、誰でもそう思っていると思う。
だけれども、その流れの中に身を投じている俺たちには、時としてそのスピードがわからなくなっていることってないか?
毎日がむしゃらに働いて、生産性を上げ続けて、10年前には考えられないスピードで決断をしなければならない状態を「アタリマエ」って思っちまうことってあんたにもないかい?
それって、変化という激流に飲み込まれている俺たちは、ただ浮いているので精一杯で、自分の力で流れを造っていないってことになる気がするのは俺だけか?
自分で流れを作るためには、まず足場がいる。確固たる足場だ。
その足場はどんなに変化という激流が激しくとも、一切動くことがない。つまり基準となる場所だ。
その一切動くことがないもの、つまりは地面があることで、俺たちは世の中を客観的に見ることが出来る。激流の外から激流を眺める手段を手にできるわけだ。
「古めかしさ」ってやつは、そういう地面、つまり客観的な基準点を提供してくれるってわけだな。
まとめ
わびさびってやつに俺が感じている魅力は、「自分の中の確固たる価値」と「揺らぐことのない基準」の二つってことになる。
確かにその二つは俺たちが求めてやまないものだよな。
その価値観を千利休は戦国時代に見出した。
現代とは別の形での激動の時代だ。
世の中が「動」にあるときこそ「静」が求められる。「動」を見定めるために。
そう考えると、わびさびって言葉は今の時代に必要なものなのかもしれないな。
あんたはどう思う?
俺たちの足元にはきちんと地面があると感じているかい?
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