子どもたちの生きるチカラのための問いかけ
あんたの家庭での教育事情。どんな感じになっているかね?
我が家の息子はくもんに英会話にプログラミング教育と、まあまあ銭を突っ込んで習い事ってやつをやってもらっている。
英会話については、ほとんど効果ってやつを実感することは無いんだけれど、くもんについては如実にその効果ってやつを実感している。
まあ、子供の頃の学習なんて、予習したやつが正義だもんな。
今回は、子供の習い事を振り返って、その上で子供がこれからの世の中でどうやって生き残っていけるのかを想像してみる回だ。
まあ、正解はないと思うよ?
でも、考えてみようぜ。一緒にさ。
算数は数をこなせば「得意だ」って思える
数学になる前の小学生の算数。
こいつは、パターン学習の最たるものだよな。
小学1年生の足し算引き算に始まって2年生の掛け算割り算。
このあたりまでは、どんだけの数をこなしているかが全てだと思うんだよね。
まあ、俺自身は掛け算九九を学んでいた時にその単調さにものすごく「つまらね~」って思った記憶があるんだけれどね。
それでも九九がなかったら、普通の生活は出来ないと思うし、四則演算が出来なかったら、やっぱり生活が成り立たない。
今の軽減税率導入後の買い物を暗算でキッチリ計算しながら買い物することは無いかもしれないけれど、それにしたって計算ってのは生活の基礎になっていると思う。
その上で、四則演算を単純にこなすまでの算数はできるできないってのがものすごく如実にわかる。
あんたも小学生の頃、九九を友だちとどっちが先に覚えられるかって競争意識にかられていただろう?
なので、算数に限って言えば、くもんは最適解だと思うんだよな。
国語という鬼門
算数が数を単純にこなせば良いのに対して、国語ってやつはなかなかの強敵だ。
国語は「これが正解」ってやつが万人にとって解答にならない可能性を秘めている。
「この文章を読んで何を感じるか」なんて質問に「正しい答え」なんてありえないもんな。
それでも国語教育ってやつの重要性はまったく揺るぎない。
ぶっちゃけ、算数が出来なくても生きていくすべは見つけられるかもしれないが、国語が出来なかったら社会生活を成り立たせるすべが全く想像できないもんな。
でも、その国語を家庭の勉強の中で教えるってのは至難の業だ。
何しろ俺たち自身が「国語で何を教えるべきか」って知らないもんな。
掛け算九九を学校で習った記憶はあっても、漢字の書き取り以外で国語で何を習ったかってほとんど覚えていないんじゃないか?
「ごんぎつね」だの「スーホー」だのを授業でやってもらった記憶はあるが、そこから何を学んだかなんて言葉に出来ないよな。
家庭で国語を意識するための質問
そんな困った国語だが、要するに子どもたちに何を学んでほしいかを俺たち親がしっかりと意識出来ていないのが目下の課題だ。
子どもたちが国語を通じて生きるチカラを身につけるために何を学んでほしいか。
ズバリ「相手の気持を想像する」なんじゃなかろうか?
文章は気持ちを伝える手段だ。
まあ、テクニックを伝えるための文章や、取引結果を記録する文章もあるが、文章で表現するものの重要な要素として「なぜ」があると思うんだよね。
その「なぜ」ってのをたどっていくと、実のところ「気持ち」にたどり着くことが多いんじゃなかろうか?
その仮定に従って考えてみる。
文章を読むにあたって、何を読み取るのが生きるチカラに直結するのか。
そう。「気持ちを読み取る」ってことだよな。
その文章から誰がどんな気持ちになっているかを読み取るってことだ。
なので、子どもたちに毎日の授業で何かを読んだって聞いたらこんな質問をしてみたら良いんじゃなかろうか?
「誰が出てきて、何が起こった?」
この問に対して、答え続けるという反復練習は、客観視の練習になりつつ、文章表現で「端的に表現する」って訓練にもなると思うんだよな。
それが出来れば、それこそが生きるチカラってやつになると思うんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
子どもたちが生きていく未来でも、その国語の力は使うことになると思わないかい?
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