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"添い遂げ"なんてだいきらい〜『うたかたの恋』と『今夜、ロマンス劇場で』を経つつ

とにかく「"添い遂げ"なんてだいきらい」の一言に尽きる。トップ男役とトップ娘役が同時退団することをその事実のみをもって機械的に"添い遂げ"と称する一部の蛮習のことである。トップスターならびにトップ娘役退団時の記者会見でなぜか定番みたいになっている「結婚のご予定は?」なる愚劣な質問については許しがたく封建的であるのみならず、昨今のタカラジェンヌOGのセカンドキャリアにおける縦横無尽の活躍ぶりとその多彩さを見るまでもなく見ればなおいっそう時代錯誤甚だしい限りで、思考することを放棄して木偶のごとくかような堕落した質問を口にするしか自らの存在意義を全うできない記者など所属する会社ごと恥辱のあまり崩れ落ちればよいと思うし、その質問のくだりを頑なに放送からカットしつづけてくれるタカラヅカ・スカイ・ステージの知見にはただただ感謝するほかないのだが、他方でこの"添い遂げ"なる言い回しがファンコミュニティのあいだでいまだ根強く残っているのを見るにつけ、「みんな本当に婚姻制度がだいすきなんやな……」とため息が出ることしきりなのだった。まあ宝塚ファンが婚姻制度だいすきロマンティックラブばんざいなのは生まれる前から知っていたので別によいものの、タカラジェンヌの退団が徹底して死のセレモニーを模しており、また殊にトップスターにあって宝塚人生における退団というメルクマールが彼女たち自身による選択としていかに重いのか、そこへと至る決意がいかに尊いのかということがことさら言を重ねるまでもない共通認識として多くのファンに共有されている以上、添い遂げという言葉が指し示すのは心中、よくて(何もよかないが)自発的な後追い死であるということになってしまうわけだが、それを本当に無邪気に賛美しちゃうんですか、しちゃっていいんですか? という気持ちにはならないこともない、倫理的にではなく、あくまで趣味判断的に。

とはいえ「心中もの」の場合、両者の死をもって幕を引かれるその物語の掉尾として白い衣装を身に纏った二人が観念世界に厳かに現れ、抱擁なり歌唱なり舞踊なりを交わすことで死後の婚姻を果たすことこそがその本分ではあった。死とは生の世界では結ばれ得ぬ二人が結ばれるための到達点であると同時に通過点=ステップである。死が愛し合うふたりを分かつのならばそれは悲劇だろうが、死はむしろ二人を現世的な重力から解放するための儀式であり、いくら物語が悲劇的な装いをしていようともあくまでそれは現世的な視点によるものでしかなく、愛し合う二人が自らの意志によって死を選んだ時点でそれは約束されたハッピーエンドなのだ。この馬鹿馬鹿しいまでに強力な様式性は、男役が娘役とともに現世的なジェンダー規範を踏襲したつがいを形成するという宝塚式伝統様式の強力さに支えられているのだろう。そしてそれは彼女ら二人が手に手を取って紡ぐ宝塚人生の最終章がより濃密で、より純粋性が高いほど強力無比になるのだから、その純粋性の証、あるいは辻褄合わせ、はたまた供物として"添い遂げ"が求められるのはそれなりに理に適っていると言えるのかも知れない。

むろん「心中」が現世において決して結ばれることが許されぬ環境や境遇に強いられた末の跳躍であるように、退団へと至る決断もまた外部からもたらされた何らかの否応なさにおいて半ば不可避的に迫られたものではないか……と想像を逞しくすることはできるのだろう。だが当人なりその周辺の関係者なりにしか知りようのない「本当の事情」など一観客にとってどれほどの意味があるというのか。烏滸がましいというか、それこそ倒錯と云うものではないか? 何を措いても重要なのはそれが彼女たちの物語であったということのはずだ。物語であるということはすなわち虚構であるということを意味する。そして虚構であるということは嘘であるということをただちに意味はしない、単に彼女たちの身体に纏われたタカラジェンヌという物語を起源としているのだから虚構なのだというほどのことである。宝塚歌劇団の命名法に則って自らを名付け、その理念と身体を伝統の中にひとまずは位置づけることによってキャリアをスタートさせたタカラジェンヌとしての物語。物語を纏うタカラジェンヌが舞台上で役として生きるあらゆる物語は「物語内物語」であり、折り畳まれ多重化した場所-時間の層を往還することこそが宝塚歌劇という体験だったはずだ。だから退団が彼女たちの意志や決断として尊ばれる以上、「心中」もまた二人の決断として尊ばれる。逆もまた然り。物語はともに等価なテクストとして相互参照される。

うたかたの恋』が小柳奈穂子によって潤色・演出されるということが発表されたときは「小柳先生のスケジュールが過密すぎる、ひょっとしてもともとは上田久美子先生が演出するはずだったんでは。よもやウエクミ、逃げた……?」くらいのことをぼんやりと思うにすぎなかったのだが、なるほど実際に観劇すると(1月2日お正月公演!)、小柳奈穂子は柚香光と星風まどかの「転生もの」(星風まどかが強力に形成する転生ものヒロイン磁場による)として、何重にも折り畳まれたテクストの襞を強調するかのように、この古めかしく時代がかった括弧付きの「名作」を30年ぶりの新たな大劇場公演作に仕立て上げたのだった。すでに『うたかたの恋』というテクストが世界に登録されている『うたかたの恋』世界の出来事。ハプスブルクという船。花組。"宝塚はひとつ"。数多の生-死を経てようやく到った東京宝塚劇場大千穐楽、幸せそうに笑い、俯き、ルドルフの部屋を歩きまわる星風まどかは、マリー・ヴェッツェラは孤独に打ち震えるルドルフ皇太子を包み込む襞そのものだった。

思い返せば月組『今夜、ロマンス劇場で』は触れ合うことも法的に婚姻することもかなわない男女が添い遂げる物語であり、老衰と接触による現世からの消滅=心中によって健司と美雪はスクリーン内=フィクション世界で死後の婚姻を結ぶことができたのだった。そして舞台上でモノクロ映画に見立てられたフィクション世界はスクリーン装置が外れると同時に鮮やかに色づき、スクリーンの外側がスクリーンの内側へと反転し、たちまち劇場全体に接続して(ひいては世界全体に)みるみるひろがっていく。死後の世界とはフィクション世界でありつまりはそれが宝塚であり世界でありわたしたちがいままでスクリーンの表側だと思っていたのは実は裏側だったのだわたしたちはみなスクリーンの裏側から別のスクリーンを見ているのだ……。まるで赤瀬川原平の『宇宙の缶詰』を舞台でやったかのような鮮やかさ、宝塚歌劇が世界にとってどのような体験であるかを絵解きするかのような見事なまでのコンセプチュアル・アート。この作品の青春群像から「心中もの」に見立てつつフィクション=宝塚論へと接ぎ木されていく手付きは、ちょうど一年後の年明け公演が同演出家の手掛ける『うたかたの恋』だったという奇縁によってより明瞭に見通せるようになったような気がする(あと『うたかたの恋』のお稽古が始まる前に先生によって開かれたというお芝居のワークショップもまた奇縁という名の隣接性が起動するその端的さに大きく寄与したのだと思う)。『今夜、ロマンス劇場で』で健司の原稿を盗み見た看護師二人の「もしかして⋯⋯」というあの期待、胸の高鳴りもまたテクストの相互参照性の所産であり、窃視者たらざるを得ない者たちによる幻想の共有こそが物語を駆動させるのだった。

だが、だが、それでもなおやっぱり何をどうしたって"添い遂げ"が気に食わない!! という話なのだ。だってまるで「終わりの美学」みたいではないの。もちろんそうしたいと当人が望み、そのように動き、事実そうなることに対しては「はー」とか「ほー」とか「へー?」以上のいかなる思いもないし、第三者には「実際そうなった」という事象しか知り得ないことは重言するまでもないのだが。かつて田辺麻紀/長峰洋子が共著書でポール・ニザン『アデン アラビア』の冒頭("ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい")を改変引用して、「宝塚は卒業があるからこそ美しい」といった類の物言いを、"女子社員の結婚退職を美風とする、ひと昔風の日本の会社のありようを連想させる"手前勝手なイメージの押し付けとして(「若い生徒の成長を見守る」というパースペクティヴの裏に貼り付く支配欲や選民意識を指摘するとともに)批判の俎上に載せていたことはいまだ忘れてはいない。村の外れにひっそり居を構える古老のオババのごとく語り継いでいきたいと思う。

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