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綺城ひか理は旅をする〜「ひとあか」線上の『アルカンシェル』

アルカンシェル』でも綺城ひか理は叫んでいた。だがその叫びは声として響くことなく、無理矢理に押さえ込まれた怒りや、血がにじむほどに握り締められた慨嘆や、ぶつけるよりどうしようもなかった狼狽や、跳躍とともに吐き捨てられた逡巡や、自ら売り渡すほかなかった誇りに隠れて、物語の水面下奥深くで薄れ、掠れ、欠け、刮げ、汚泥に塗れて消え入りそうになりながらも持続し、最後の最後に長い呻きとしてジョルジュの背筋を伝って首元から這い昇ってきたのだ。虹を渡るかのように階段を降りながら、女性たちに自らの身体をもって架橋し、架橋されるジョルジュのイメージが橋を破壊するというインスピレーションとしてコンラートに胚胎したのだし、物語の水面下奥深くにおけるジョルジュの叫びの持続が『アルカンシェル』という二幕芝居の長さを支え、またその事実上の掉尾としての地下水路という舞台を準備した。綺城ひか理は舞台上に仕込まれたばねだった。ギリギリまで引き絞られ、メキメキと撓りながら、あらかじめ多数化された歩行線として、気ままに増築を重ねたかのような安普請の場面パッチワークの隙間から芽吹く人生の様相として、現代から遡行するイヴ・ゴーシェの語りの内側にて再現された占領下のパリに観客を立ち会わせてくれた。

まずはじめにジョルジュを挑発し激昂させたのはマルセルだったし、ジョルジュから歌唱パートを剥奪した(ようにジョルジュには見えた)のもマルセルだったし、ジョルジュのアプローチを拒みこれまでの関係性の再解釈を要求したのはカトリーヌだった。歌唱パートが舞踊パートに取って代わられるくだりは、占領下において言語のヘゲモニーが組み替えられたことを端的に象徴するだろう。団員各々の身体に添うかたちで振り付けられた個々の舞踊が、スローガンという遠点における緩やかな統合のもと抵抗の言語として組織-展開される。

タカラジェンヌにとって顔は身体の外延であり、身体もまた顔の外延である。彼女たちはしばしば舞台を降りて役名の仮面を外した状態の自らをもって「芸名の自分」と称するが、舞台を降りた先もまた舞台であり、仮面を外したその下にもまた仮面をつけている、という自己認識のもと日々を過ごしていることがうかがえる。そのさらに下には「本名の自分」があるのかも知れないが、本名は誰かに与えられたものであり、物心ついたときにはすでにその名前をもって世界が構成されていて、多くの場合は引き受けるほか選択の余地はない。他方で芸名はそこにどのような思いを込めるにせよ込めないにせよ入団するにあたって自ら名乗るものであり(必ずしも在学時に提出する複数の芸名候補の第一候補が採用されるわけでもないようだけど)、そもそも時系列的には本名は芸名に先んじながらも認識論的には芸名の自分から遡行して見出されるものなのだから、芸名の仮面の下に本名の自分の仮面があり、本名の仮面の下にまた芸名の仮面がある、とも言えようし、その下にもまた、さらにその下にも……と歪んだ円環を描き果てなく続いていく。タカラジェンヌであるということがすでにその重なりを生きるということであり、その意味で宝塚歌劇は条件として(多重)仮面劇なのである。身体としての顔、顔としての身体は、仮面をかぶり、外し、かぶりなおすという営み、かぶられた仮面の重なりによって不断に領界線が引きなおされ、その都度ひとつのまとまりとして再定義される。あらゆる所作が、振る舞いが舞踊となり、その舞踊によって基礎づけられる存在がタカラジェンヌなのだ。

マダム・フランソワーズ・ニコルに背を向け、まるで断末魔の悲鳴を上げるように警告とも恫喝とも取れる捨て台詞を残して走り去ったジョルジュが、コンラート・バルツァーのもとでナチス親衛隊の制服に身を包み、頭をねじ込むように制帽をかぶる。綺城ひか理の体勢と着こなしの美しさに思わず身を強張らせ目を潤ませはっと息を呑むも、『カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~』でナチス式敬礼をさせられる天彩峰里が脳裏によぎりつつ、ぬけぬけとこのような場面をあかさんに用意し、まんまとこちらにこのような感情を抱かしめた小池修一郎に対して怨嗟を差し向けたくもなる……が、それはそれとしてこれは紛れもなく花形歌手の仮面を捨てたジョルジュがナチスの仮面をかぶりなおす所作ではないか。そしてその身体が権力の傘下で再定義されたことは、後の場面で偶然再会したカトリーヌが「ドイツ軍に知り合いはいないわ」とジョルジュに一瞥もくれず吐き捨てることからも明らかなのだ。

実際のところカトリーヌにはフリードリッヒ・アドラーというれっきとした「ドイツ軍の知り合い」がいるはずである。もちろんカトリーヌにドイツ軍の知り合いがいるかどうかなど誰が問うたわけでもなく、彼女の発言が独り言の体裁をとっている以上、そこで目論まれているのはあえてジョルジュを一顧だにしないことによるきわめて限定的な効果だけであり、命題として真か偽かということを言挙げしたところで揚げ足取りにしかならないだろう。とはいえウィンナーワルツを上演することを強いられた劇団アルカンシェルに、コンラートたち占領軍が不在の公演だけ「仮面をつけ替える」よう提案したのはフリードリッヒだった。提案であるとはいえ、あくまでも占領者たるドイツ軍の立場から行なわれているのだから、本人がどこまで自覚的かにかかわらずそれは勾配の不均衡にのっとった紛れもない権力の行使である。いわば劇団アルカンシェルはフリードリッヒによって抵抗者の仮面とそれを覆いかくす無辜の一劇団の仮面を同時にもたらされたのだ。ジョルジュの密告は仮面を引き剥がし、その下にある「本当の顔」を暴露するためのものだった。果たして仮面は引き剥がされ、フリードリッヒに仮面をつけるよう要請されたことによって遡行的に見出された抵抗者の仮面が彼らの「本当の顔」ということになってしまった。権力によって仮面の多重性そのものが踏み躙られてしまった。連行されそうになった道化師のペペは叫ぶ。「わたしには思想などない!」

少年イヴが舞台を照らすミラーボールに言及し、ペペがオーケストラの指揮者に挨拶を送ることができるのは彼らが周縁者であるがゆえだろう。「たゆたえども沈まず」のシンボルも少年イヴが指し示し、それがやがて劇団アルカンシェルの、抵抗のスローガンとなった。冒頭から示される通り、この作品の語りの枠組みもまたも彼ら周縁者の記憶の継承によって形成されている。彼らの存在が、身振りが、声が内部を定義する。フリードリッヒはドイツ軍がパリへ進軍したのと同様アルカンシェルの内部へあくまで外部者として入ってきたのだから、ある内部から別の内部へと身を移したのはジョルジュただひとりということになる。そしてジョルジュを「劇中ただひとり」の存在に仕立て上げたのは、もちろん本人は夢にも思わないこととはいえ、劇団に仮面をつけるよう要請したフリードリッヒなのである。そしてまるでフリードリッヒと入れ替わるようにジョルジュは劇団から居場所を失った。ジョルジュの密告は劇団アルカンシェルの仮面を剥ぎ取り、その虚構性をあらわにしたのだから、結果としてフリードリッヒの意志を踏み躙ったこととなる。それを裏書きするかのようにカトリーヌは地図が完全に書き換わってしまったことを、ジョルジュを一顧だにせず独り言のように宣告することで世界に登録するのだ。そうやってマルセルを媒介してジョルジュとフリードリッヒが対峙する(マルセルから見ればフリードリッヒが媒介となるわけだが)地下水道の場面が物語進行の水面下で準備されていった。

そもそもドイツ音楽を学んでいたジョルジュにとってはドイツこそが文化的祖国だったとは言えまいか。ジョルジュが酒場でコンラートと遭遇したときどのような話をしたのかは知る由もないが、彼が「祖国」への郷愁をかきたてられた、会話のなかでそのように励起されたことは想像に難くない。祖国から「祖国」へ。『アルカンシェル』で綺城ひか理が見せてくれるのはその遍歴の旅路である。マルセルとカトリーヌも見たあの虹のような、始点と終点の隠れた、なにかとなにかのあいだに架けられた軌跡の持続、その遠近法をひらいて見せてくれるのが綺城ひか理というタカラジェンヌなのだと信じている。黙して退場するジョルジュの表情を見ながら、同じく黙して退場した宰相オンブルの旅路の行く先がふと案じられたりもしたのだった。

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