めんどくさい網の目のなかで引き受けていくこと

いま仕込んでいるお祭りは、どんなにめんどくさくても、泥臭いところを可能な限り引き受けたいなと思っている。

面白がれる人たちだけで面白いことをやるのは簡単だ。でもその分だけ、〈おもしろい〉誰かが、〈おもしろくない〉誰かを排除すればした分だけ、おもしろいことは、〈みんな〉から遠ざかってしまう。〈みんな〉でやるっていうのは、そこらへんの生意気な子どもや、マックの女子高生や、町内会の婦人会のお母さんたちや、仕事辞めたいとばかり言っている24歳や、自民党支持一択のおじいちゃん、そうした人たちと何かをやるということである。全員と話をできるわけでもないし、全員とわかりあえることなんてありえない。わかりあう必要だってない。僕のことを嫌いな人だっていれば、僕が嫌いな人だっている。でも、そうした違いを、さよならのための壁とみなしてしまえば、もうそこで、話は終わりである。そうした人たちにまで私につながる網の目を編みこんでいかなければ、「まち」なんてどこにもないのだ。

まちってのはSNSの先にいる人たちだけでできてるわけじゃない。だから、そういう人たちと出会うには、足を運ばなくちゃいけない。空間をつないでいくために、道路も車輌通行禁止にしたいし、まちに住む人たちにも菓子折り持ってまわらなければなるまいし、協力を仰ぐために商店街の人たちにも商工会議所の人たちとも話をしていかなくちゃいけない。

まちに関与することは、華々しいデザインや企画や編集をすることだけではない。それは全体のうち、ほんの、ほんの一部のことである。勘違いしている人が多すぎやしないか。まちに本気で関与するというのは、めんどくさいことである。自分自身で決められないことである。前に進んだと思ったらうしろに引き戻されるような、そういう営みである。俺だってやりたいわけじゃない。めんどくさいということだけはわかりきっている。だから誰もやらない。そしてだからまちは変わらないままなのである。

そして、だからやるのだ。誰もやらないなら自分がやればいい。やるからまちが変わるのだ。一番泥臭いところをやる人がいなければ、面白いことをやれるための環境をつくる人がいなければ、美しいデザインも、世界を変えられるかもしれないアイデアも、絵空事のままである。

この投稿は自分を鼓舞するために書いている。こうして駆けずり回ることは、ちょっと想像しただけでも、おそろしくめんどくさい、そのことだけは明々白々たる事実である。

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ある人に、自分たちのいまの計画について話をさせていただいた。おもしろいね、と言っていただいた。なんでこんなことをやれると言えるのかな、やっぱり若狭なのかな?と問われた。確かに、と思った。僕はいま、誰が見てもどう考えても、おそろしくめんどくさいことをやろうとしている。

素朴に言って、これは「僕がやりたい」わけじゃないんだと思う。確かにやりたいと口を動かしているのは僕なのだが、僕の口を借りて出てきているこの言葉は、別の誰かや何かの言葉混ざりこんでいると思う。僕はいわば、ラトゥールのいう「代弁者 spokesperson」なのだと思う。これまで出会ってきたものたち、お世話になってきたものたち、僕に流れこんでいる有象無象のものたち、それらが僕を介して、そうしろと叫んでいるのだ。

別に完全に断絶した僕個人を空想してみたとき、そんな僕個人が、お祭りをやりたいわけじゃないのである。断絶した僕個人は、めんどくさがりだし、なんにもしたくない。めんどくさいな、やりたくないな、とぼやきながら、毎日仕事をしているのだ。でも、そうして僕を媒介項にして(当然、そこには僕の解釈だって、多々混入しているのだが)いろいろなものたちが僕の口を借りて叫んでいる。もう僕の思考も身体も、僕だけのものではないのだ。そうして僕自身が、いろいろなものたちに駆動されている。そうして僕自身が、もはや自分自身でもどうにもならないうねりへと投企されていくこと、そうして僕自身が想像しなかったところへとどんどんオールを漕ぎながら流されていくこと。それはそんなに嫌なことじゃない。こうして巻きこまれ、編みこまれ、揺さぶりあいながら僕もまちもともに変容していくこと。そうしてまちがうごめいていくのだ。それが網の目を引き受けていくということだ。それが存在論的デザインだ。

自分で思いついておいて、めんどくさいなんて、バカげてると言われるかもしれない。でもしょうがないのだ。やるか?やらないか?と問われたら、やる一択でしょう


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