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人はなぜ「不快な気持ち」を共有したがるのか

どうも、34歳になった佐藤ダインです。

今回の目次
・人はなぜ「不快な気持ち」を共有したがるのか
・暗闇コンに行ってきた


人はなぜ「不快な気持ち」を共有したがるのか

パソコンやスマートフォン、タブレットなどのツールの進化により情報の発信、受信の仕方は多様化している。また、YouTubeを筆頭とする動画配信サイトやTwitterなどのSNSが広く一般に浸透している時代でもある。

僕もそんな時代に生きる一人であり、情報化社会の恩恵を十分過ぎるほど感じている。それと同時に、ある違和感を感じることも多くなった。それは、人はなぜ「不快な気持ち」を共有したがるのかという疑問から生じる違和感である。

例えば、お菓子を食べようと思って袋を開けたら虫の死骸が入っていたとする。10人中10人が不快な気持ちになると思う。そんな時、皆さんならどんな行動を取るだろうか?

A. お菓子を捨てる。
B. 死骸を捨てて、それ以外を食べる。
C. 友人に連絡する。
D. 店に連絡する。
E. メーカーに連絡する。
F. SNSに写真をアップする。

選択肢としてはこれぐらいだろうか。このどれか、もしくは複合的な行動を取るかもしれない。僕が問題としているのはFの行動である。A~Eまでの行動においては、「不快な気持ち」が伝染するのは限られた範囲である。しかしながら、「SNSに写真をアップする」という行為は、そうはいかない。もしかしたら、100RT…いや、1000RTされてしまうかもしれない。そうなったら何千、何万もの人に不快な気持ちが伝染する。

もう少し想像力を働かせてみたい。仮に、そのお菓子のメーカーが小規模な会社だったとする。もし、そのお菓子を全て回収するという事態になったとすればそのメーカーにとっては大ダメージだろう。そればかりかブランドイメージが下がって売り上げも(一時的かもしれないが)下がることが予想される。そうなると、お菓子を製造している工場もいくつか閉鎖させざるを得なくなるかもしれない。そうなったら、そこで働いている従業員は職を失うことになる。これは僕の想像であって、実際はこう単純なものでは無いかもしれないが、可能性のひとつとして考えて欲しい。

逆に言えば、メーカーにより多くのダメージを与えたい場合においてはSNSにアップすることは有効な手段のように思う。直接メーカーに文句を言うよりも、より多くの味方を得た上で攻撃することが可能になる。しかしながら、そうまでして不快な気持ちを共有する理由は何だろうか?単なる憂さ晴らしだろうか?より衛生的なお菓子を製造してもらうことが目的だろうか?

この行動の裏にはもっと他の目的があるような気がしてならないのだ。


韓国のアイドルグループであるBTS(防弾少年団)が話題になっているようだ。メンバーの一人が原爆投下後の写真とバンザイしている写真がプリントされたTシャツを着ていたことに端を発する。僕がこのニュースを知ったときのリアルな反応は…

ふーん…


だった。全く関心が無い。特に不快にも思わなかった。誤解が無いように言っておくと、原爆で亡くなられた方や被害にあわれた方に対しては心が痛むし、とても悲しい出来事であったと思う。しかしながら、この件に関しては一個人(一団体)の政治的メッセージ(ではないかもしれないけれど)としか思わなかった。

当然、不快に思う人もいるとは思う。そう思う人が「不快です」と主張するのはまだ分かる。しかし、そうでない人達が声を上げることに違和感を感じるのだ。

僕は最近、YouTubeをよく見ている。BTS(防弾少年団)の問題が明るみになった時、一斉にもの申す系YouTuberがこの話題を取り上げた。しかし内容は、「これは問題だ」とか「いかがなものか」というような”自分は何とも思わないけれど”というニュアンスが含まれたものが多かったように思う(あくまで僕が見た範囲では)。つまりは、当事者では無いのだ。ここで言う当事者とは、戦争を経験しているとかいう意味では無く、この問題に対して個人としての意見を持っている人のことである。

僕自身、このニュースが無ければBTSの存在も知らなかった。もしかしたらBTSを知らなかったけれど、この問題がきっかけで嫌韓感情を触発される人もいるかもしれない。このように、その情報を見て不快になる人が一定数いると分かっているのであれば、むしろ発信しないべきなのではないだろうか?

つまり、僕の意見はこうだ。

不快な気持ち(情報)は、スルーすべし。


不快な気持ちはなるべく伝染させないほうが良いに決まっている。それは共通認識として理解できると思う。しかし、そうでは無い(拡散しようとする)行動を取る場合がある。なぜそのような行動を取ってしまうのだろうか?

僕なりに1つの仮説を立てた。

「不快な気持ち(情報)そのものは重要では無く、自己の証明が重要である」


お菓子の例に戻れば、「お菓子に虫が入っていたこと」自体は重要ではなくて、「お菓子に虫が入っていたことを発信する自分」が重要なのである、という説である。大事MANブラザーズ的に言えば、ここにあなたがいないのが切ないのじゃなくて、ここにあなたがいないと思うことが切ないのである(?)。

話を戻そう。不快に思う事象そのものはむしろ後付けであって何でも良いのであって、それよりも先に自己の存在を証明したいという欲求が第一にあるのではないだろうか。つまりはこういうことだ。

自分の存在を証明したい

そのための媒介(ネタ)を探す

なんか世間的にダメっぽいものを見つける

自分の意見っぽいことを言う

他人から認知される(自己が証明される)

嬉しい

より強い意見を発信する

という流れなのではないだろうか?


別の例も取り上げてみたい。各事例に対して僕の意見を添えてみた。

○AbemaTVのコメント欄で「つまらない」とずっと言っている人
→つまらないのなら別の番組を見ればよい。

○芸能人の不倫について「許せない」「奥さん(旦那さん)がかわいそう」と言っている人
→不倫は犯罪では無いので、本人たちだけの問題であって外野が意見することでは無い。奥さん(旦那さん)がどう思っているかは憶測でしか分からない。

○「イッテQ!」をヤラセだと言う人
→ヤラセかどうかよりも、面白いかどうかが重要。仮にヤラセだったとして、視聴者に何の不利益があるのか。

これらに共通しているのは、「不快だ」ということを自分の中に留めることが出来ずに外部に対してアピールしているということだ。本当は自分にとって関わりの無い問題の場合もあるかもしれない。また、不快に思ったとしても回避の方法はいくらでも思いつく。こうやって考えると、前述の仮説は正しいように思えてくるのだがいかがだろうか?

もちろん、ネット上において自分の意見(快、不快を問わず)を言ってはいけないとは当然思わない。むしろ、自由な発言ができて然るべきだと思う。しかし、発言にはある程度の責任が伴う。自分の発言(発信)が何を目的としているのかもう一度立ち止まって考えてみて欲しい。そして、それを受信する側がどう思い、どう行動するかまでも考える必要がある。自分がそれを完璧に実践出来ているかと問われれば、自信を持ってYESとは言い難い。でも、できるだけそうありたいと思っている。


暗闇コンに行ってきた

先日、暗闇コンに行ってきました。

暗闇コンとは文字通り、暗闇の中で行われるコンパのことです。どういった内容だったのか?果たしてマッチング出来たのか?参加してみた感想を正直に書いてみようと思います。

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夕飯が豪華になります。