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望月優大 『ふたつの日本』で示される「移民」とは誰なのか(その1)

望月優大(2019)『ふたつの日本  -「移民国家」の建前と現実』(講談社)

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を読みました。ここのところ、SNS等で、感想、書評等が続々と発信されていて、いまさら感は否めませんが、本書で描かれている「ふたつの日本」に深く関わってきた人間として、書かずにはいられませんでした。

4月1日に改正入管法が施行され、「出入国在留管理庁」もスタートしました。今後、「外国人材」として、多くの外国人が日本で働くようになります。この動きはもう誰にも止めることはできません。だからこそ、これまで、この世界に深く関わってきて、この先、何が起こるのかを実感とともに語ることができる者が積極的に発信していかなければならないのだという気持ちを強く持ちました。

本書の帯には、「図表50点以上収録!」と記されており、様々なデータをもとに、現在日本で暮らす「移民」と考えられる人々の実態が、数字とともに説明されています。否定することのできない数字を示すことによって、全体像が具体的に、現実のものとして迫ってきます。しかし、望月さんは以下のように説明します。

そこでカウントされる「1」というのはあくまで一人の生身の人間のことである。

この言葉のとおり、私にはここでカウントされた「1」を、名前を持った一個人として、具体的に思い浮かべることができます。本書に掲載された図表の数字は、単なる数字ではなく、私にとっては、日本に生きる、また、日本を離れた人々の人生の一部であり、また、私の人生の一部でもあります。そこで、今回は、この本の図表をもとに、私が経験してきたことを綴っていこうと思います。

第2章 「『遅れてきた移民国家』の実像」から

2章では、ここ30年の様々なデータを、国籍、在留資格、産業別など、様々な角度で分析し、その推移や分布を示しています。私は、この日本語教育業界に1998年ごろから関わり始めたので、30年のうちの20年くらいの変化を実際に体験してきたことになります。

本書では、在留資格のカテゴリーを5つに整理して説明しています。

 1. 身分・地位
 2. 専門・技術
 3. 留学
 4. 技能実習
 5. 家族滞在
 6. その他:文化活動、研修、特定活動

今回は、その中でも「労働者」としてカウントされる人々について具体的に書きたいと思います。

身分・地位(145万237人、55.0%)

この中には、様々な在留資格が含まれますが、より関わり深かったのは「定住者」という在留資格を持った人たちです。詳しくは、下記にも書いています。

「定住者」というのは、1989年の入管法改正で創設されたもので、ブラジルやペルーなど南米から来日した日系人に対して付与された在留資格です。私が住んでいた町にも、1995年ごろから多くの日系人が暮らすようになり、その数はどんどん増えていきました。そして、2008年のリーマンショックのときに、一斉に町を離れていきました。仕事がなくなったからです。本書の図表2-1「在留外国人数の推移(国別)」(p.40)には、ブラジル出身者の人口推移が記されているのですが、私の町の外国籍住民の人口推移のグラフとほぼ一致します。私の町で起こったことは、全国的に起こったことの縮図だったようです。

私がこの町の「定住者」という在留資格を持つ日系人と関わり始めたのは、2000年ごろです。町の日本語教室がきっかけでした。「定住者」は、2005年ごろから急増していきました。彼らは近隣市町村の主に製造業の工場で働いていました。「定住者」の在留資格ができて、すぐ日本へ来た人は、来日10年くらい経っていました。彼らは、日本語も上手で、パワフルで、急増するブラジル出身者のリーダー的な存在でした。新しく町に住み始めた日系人たちの相談役になっていました。このような日本に長く住み、行政にも関わるようになっていった人がその頃よく口にしていたのが、「永住ビザに切り替えたい」「切り替えた」という言葉でした。私は、当時、その在留資格の意味をよく理解していなかったので、「定住と永住って違うんだー」くらいにしか思っていませんでした。「永住」をもらうには、10年以上日本に住んでいることが必要なんだということをよく話していました。

本書の図表2-8「在日ブラジル人口の推移(在留資格別)」(p.52)を見ると、2009年の段階で、「定住者」と「永住者」の数が入れ替わっています。「定住者」より「永住者」の方が増えているのです。この分岐点は、実感として理解できます。理由は、2008年のリーマンショックだと思います。このとき「定住者」の在留資格を持っていた人の多くが帰国しました。一方で、そのまま日本に残った人は、子供が日本の学校へ通っており、ちょうど進学などで悩んでいるときでした。中には、子供が日本で就職したという人もいました。また、生活基盤が日本にあり、町内に家を建てた人もいました。そのような人たちには、国へ帰るという選択肢はなかったようです。そして、多くが「永住者」の在留資格に切り替えていました。また、「帰化」を選択した人もいました。「親が日系人だと子供が差別を受けるかもしれないから」と漏らしていたのを聞いたことがあります。

私は、この町を離れてしまいましたが、彼らは、今でも同じ町に住んでいます。私の実家の近くにも家を建てた人がおり、実家の母が「自治会のイベントにも顔を出してたよ」と話していました。彼らは、確実に一市民として、今もそこに暮らしています。

技能実習(25万7788人 、20.2%)

次に、私が町の日本語教室に関わっていたときに、接することが多かった「技能実習生」について書きたいと思います。私の町は、製造業を営む中小企業が非常に多く、それらの工場で働く技能実習生もよく日本語教室に来ました。

身近に多くの技能実習生がいたにもかかわらず、この技能実習生と呼ばれる人たちがどのような在留資格を持ち、どのような条件で、どのようにして日本へ来ているのか、当時の私は、よく理解できていませんでした。「私は研修生です」という人がいたり、「私は実習生です」という人がいたり、そもそも研修なのか仕事なのかよくわからなかったし、実習生と会社との関係や待遇も受け入れ先によって様々で、当事者の説明を聞いてもよく理解できなかったのです。

2009年に「技能実習」という在留資格が創設されたというニュースを聞いたとき、「あれ?今までの実習生はなんだったの?」と思ったのを覚えています。それ以前は、「特定活動」という在留資格で日本へ来ていたということを、そのとき知りました。本書 図表2-12「外国人労働者数の推移(在留資格カテゴリー別)」をみると、2010年を境に、「特定活動」と「技能実習」が入れ替わっているのがわかります。また、本書の4章「技能実習生はなぜ『失踪』するのか」を読んで、今までもやもやとしていたものが、次々とクリアになっていきました。この業界にいて、実際に彼らと接しながら、何も知らなかった自分が情けなくなりました。一方で、ここに書かれたような先入観を持つことなく、彼らと接することができたのも、ある意味よかったのではないかとも思っています。在留資格を確認してから、人付き合いをするわけではないからです。

話を私が接した実習生たちに戻します。私が関わり始めた2000年当時は、中国からの実習生が非常に多かったのですが、そのうち、インドネシアの実習生が増え始め、私が町を離れる2012年ごろには、ベトナムの実習生が増えていました。

技能実習生といういうと、最近の報道では、非常にネガティブなものが多いです。私も制度の実態を知ってから、この制度には多くの問題があると考えるようになっています。しかし、当時の私は、システムの問題というより、受け入れ先の企業の問題だと捉えていました。そのくらい企業によって、対応に差があったのです。実習生の話を聞いて、お節介な私は「それは、おかしい。私が企業に意見をしてあげる」と申し出たことがあります。しかし、「そんなことしたら、国に返されてしまうから絶対に言わないで欲しい」と懇願されてしまったことがあります。一方で、受け入れ先の会社の社長さんや社員に大切にされ、食事や旅行に連れて行ってもらったという実習生もいました。

当時、私は日本語学校に勤務していたのですが(こちらが本業です)、日本語学校のある場所と私の生活圏は別だったので、より私生活への関わりが近かったのは、技能実習生でした。スーパーで出会ったり、20キロ近く離れた隣の街へ自転車で移動する姿を発見したり、彼らの手作りの料理を床に座って一緒に食べたり、パーティをしたり…  平日が忙しかったので、そんなに頻繁ではなかったのですが、よく一緒に遊びました。彼らは、3年で帰国してしまうので、慣れた頃には、町を離れて帰国してしまうのですが、その分、多くの人と知り合いました。

教師と学生という関係ではない彼らとの交流は、リラックスした楽しいものでした。ムスリムと呼ばれる人たちに実際に接したのも、彼らが初めてでした。未だに、Facebookでやりとりしている人もいます。国に戻った実習生に会いに行ったこともあります。数年後、日本に戻ってきた実習生もいます。彼らにとって、日本での経験は、その後の人生に大きな影響を与えているのがわかります。ある実習生は、日本でいちばん学んだことは「がんばる」ということだと言っていました。私は、彼が実習生として危険で、大変な仕事をしていたのを知っているので、その言葉を聞いて、なんだかとても複雑な気持ちになりましたが、その言葉のとおり、彼は、今、国で「がんばって」います。

以上、私が住んでいた町で身近に接してきた「定住者」と「技能実習」について書いてきましたが、「労働者」としての彼らがどこに属しているのかをもう一度、本書で確認したいと思います。図表2-14「外国人労働者カテゴリー別構成率(産業別)」(p.65)には、製造業の構成率が示されています。「身分に基づく在留資格40.1%」「技能実習41.2%」とありますが、この中に、今ここに書いた人々が含まれます。

また、図表2-15「外国人労働者の地域別構成率(産業別)」(p.67)によると、製造業のカテゴリーでは、93.8%が東京都以外で働いています。私の生まれ故郷が、まさにこの代表格ということになります。両者とも、2017年の資料を基にしていますので、厳密には、私が接してきた人とは言えないのですが、ただ、私にとっては、このグラフに属する人は、他人事ではありません。私の生まれ故郷の産業を支えていたのは、紛れもなく彼らです。

サイドドアから受け入れる「労働者」

望月さんは、ここに挙げられた「定住者」と「技能実習生」を、非「就労」目的の在留資格で「サイドドア」から受け入れた労働者であるとし、以下のように説明しています。

日本では「いわゆる単純労働者を受け入れない」という建前を維持しつつも、現実の労働需要に応えるためにフロンドドアのほかにサイドドアを機能させるという道が選択されてきた。その結果が日系人とその家族、研修・技能実習生、留学生たちの急増である。(p.89)

サイドドアの「労働者」には、私が最も深く関わってきた「留学生」も含まれています。図表2-12「外国人労働者数の推移(在留資格カテゴリー別)」(p.63)を見ると、2015年ごろから、「資格外活動」で働く労働者が急増しています。これが、留学生です。私は、2012年〜2014年の2年間、日本語学校の現場から離れていました。2年ぶりに東京都内で日本語学校の現場に復帰したとき、様変わりした教育現場に面食らったのを覚えています。
(留学生については、書くと長くなってしまうので、今回は割愛します)

なんの因果か、私は、「定住者」「技能実習生」「留学生」と、「いわゆる単純労働者」とされる人々の変遷に、ぴったり伴走してきてしまったのです。

とはいえ、私が接してきたのは、何万分の数十人です。ただ、その一人一人に生活があり、人生があります。

例えば、図表2-8「在日ブラジル人口の推移(在留資格別)」(p.52)において、「定住者」と「永住者」の折れ線グラフが交錯するその分岐点には、自分ではどうすることもできず、悲観して帰国した人、ある日突然、私の周りから消えた人が含まれています。

図表2-12「外国人労働者数の推移(在留資格カテゴリー別)」(p.63)のグラフが示しているのは、「特定活動」のカテゴリーから、「技能実習」のカテゴリーに、自分の意思とは関係なく移動した技能実習生たちの存在です。「特定活動」という実態の不明瞭な在留資格で「研修」「実習」と言う名の労働を行ってきました。そして、在留資格が変わるとき、やっていることは全く変わらないにもかかわらず、この先、日本にいられるのか、何年いられるのか、給料や待遇はどうなるのかという不安を漏らしていました。

図表4-6「留学生全体に占める労働者の割合推移」(p.136)には、増え続ける「労働者」としての留学生の実態が示されています。これは私の仕事にも関わる大きな変化です。上限である週28時間を超えてアルバイトをしている学生に、そのことを指摘すると「先生、もし留学生がアルバイトしなくなったら、日本の社会は困るでしょ」と言われて何も言えなかったのを思い出します。ネットで注文した商品が翌日に届くのも、居酒屋で安く焼き鳥が食べられるのも、正月に食べるおせち料理でさえ、彼らの労働がなければ成立しません。

望月さんは次のように指摘します。

 平成時代の基調となった「サイドドア」政策とは何だったのだろうか。それは、建前と現実のズレを利用しながら「人間」に対する恒常的な不関与と無関心を可能にし、ただ「労働者」であるだけの外国人を導入するための奇妙な方便として機能してきたのではなかったか。その顕著な現れが都合の悪くなった技能実習生の「強制帰国」であり、その陰湿な現れが大量解雇された日系人に対する「帰国支援」であったのではないだろうか。(p.211)


今回は、サイドドアから受け入れた「労働者」に注目して、図表を中心に私の体験してきたことを書きました。『ふたつの日本』を読んで、書かずにはいられなかったのは、この図表の中に示されている数字を単なる「数字」にしたくなかったからです。望月さんは、これまで多くの日本で暮らす外国人にインタビューをし、取材を続け「一人の生身の人間」の話を聞いてきているのでしょう。だからこそ、この数字の裏に多くの人生を重ねることができるのだと思います。そして、この現実を伝えるための多くの数字が、説得力を持って訴えてくるのだと思います。

しかし、望月さんや私のような仕事をしていなければ、この数字の裏に存在する人々に気がつかないままやり過ごしてしまいそうです。「移民」という言葉を避けることによって、その存在が見えにくくなっているように思うのです。今回は、その存在をしっかり見てほしい、感じてほしいと思って書きました。「移民」政策は取らないと言いつつも、これだけ多くの人が、実は、身近に存在しているのです。「移民」ではない、と言っていれば存在し得ない人ではなく、日本には、もうすでに多くの「人」が生活し、すでに私たちの生活に欠くことのできない存在になっていると私は思っています。


* * * * * * * *

長くなってしまったので、一旦、この話は終わりにしたいと思います。しかし、この話には続きがあります。「『移民』とは誰なのか」を考えるとき、その人の人生も合わせて考えなければなりません。「労働者」というカテゴリーに分類されていても、結婚して家庭を持ち、定住していくこともあります。次は、その点に焦点を当てて「移民」とは誰かを考えたいと思います。(と言いつつ、なかなか書く時間が持てないので、今回は「続きを書くぞ」という思いを込めて、「その1」というタイトルをつけました)

お読みいただき、ありがとうございました。

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!