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「日本語を勉強したい」の「日本語」って何?

このところ、入管政策がらみのネタが多かったのですが、今日は、久しぶりに授業に関係することを書いてみたいと思います。

私の勤務する日本語学校では、教科書を使わない「プロジェクトベース」の授業を行っています。
プロジェクトを進めながら、実際のやりとりを通して日本語を学んでいくということをしています。文法や語彙の授業はありません。
必要な文型、語彙は、必要に応じてその都度押さえていきます。

このような授業を行っていると、学生の意識は「プロジェクトをどのように進めるのか」に集中し、「日本語を学んでいる」という感覚はだんだん希薄になります。しかし、突如として「日本語を勉強したい」という意見が、学生から噴出することがあります。

どんな時だと思いますか?

それは、「プロジェクト自体に興味がなくなった時」だと私は感じています。
「こんなことをしているくらいだったら、日本語を教えてよ」という気持ちになっているのではないかと想像しています。
今回は、こんな「日本語を勉強したい」という言葉から考えた、「プロジェクト型の学び」の苦悩とおもしろさについて書いてみたいと思います。

プロジェクト失敗の予感

実は今、プロジェクトに取り組んでいるチームの一つが、「もう、やりたくない」モードに陥っています。側から見るとチームワークがうまくいっていないように見えます。チームワークがうまくいかない要因はいろいろ考えられます。
教師側もあれこれ考え、様々な働きかけをしてはいるのですが、なかなか思うようにいきません。教師が介入すればするほど、学生の主体性が失われるし、かといって、放っておくとどんどん、ネガティブな方向に引っ張られ、学習意欲が低下していきます。

これは、プロジェクトをやっている学生も、それを見守る教師も、双方が苦しい状況です。感情的になったりもします。そこで、少しでも冷静に分析しようと、改めて下記の本を読み返しました。

亀倉正彦(2016)『失敗事例から学ぶ大学でのアクティブラーニング』

本書は、アクティブラーニングを進める時に生じる「失敗」を、感情的に評価するのでなく、冷静に分析する視点を持つために、非常に参考になります。「できないのは学生のせいだと決め付ける」(p.121)のではなく、環境、カリキュラム設計、授業の進め方、教師の行動、言動など、様々な視点から、現在進行中のプロジェクトを振り返ることができます。

上記の本の一部は、下記の報告書で読むことができます。
中部地域大学グループ・東海Aチーム編(2014)『アクティブラーニング失敗事例ハンドブックー産業界ニーズ事業・成果報告ー

このハンドブックのp.4-5には、「アクティブラーニング失敗原因マンダラ」「アクティブラーニング失敗結果マンダラ」が所収されています。この「マンダラ図」は、アクティブラーニングを行っている中部地域の大学の調査をもとに、失敗原因・結果を分類整理したものです。


この「マンダラ図」を眺めていると、失敗原因は、学生よりむしろ、教師側やプロジェクトの環境設計にあることに気づかされます。

私は、プロジェクトがうまくいかなくて、感情的になっているとき、この「マンダラ」を拝みます。(報告書を作成したチームの皆様、使い方間違っていたらすみません)
そうすると、プロジェクト全体を俯瞰してみることができ、授業の枠組みや自分の授業での振る舞い方など、かなり冷静に、多くの場合痛みを伴って、振り返ることができます。

しかし、マンダラを拝んだからといって、突如、仏様が現れたり、悟りを開いたりして、プロジェクトが劇的に好転するわけではありません。気持ちを切り替えて、「よし、今日こそは」と思って教室に入っても、「あー、今日もダメだった…」と、さらに落ち込んで、教室でマンダラを拝み直す毎日です。

「このプロジェクトを早く終わりたいです。そして、日本語の勉強をしたいです」

なんて、振り返りシートに書かれていたりすると、なおのこと落ち込みます。

神様降臨

自分でもどうしたらいいかわからなくなってきたので、これまでの経緯を振り返り、失敗分析をするつもりで、今回は、このテーマを取り上げました。ここで、これまでの経緯を分析し、言語化することによって、何か見えてくるものがあるかもしれないと思い、書き進めていたのですが、ここまで書いて、「マンダラ」効果なのか、なんと本日の授業で神が降りてきました。

ここからあとは、本日の授業で起こったことを書きます。

今日の授業は、チームワークがうまくいっていなかった「もうやりたくない」チームのプレゼンでした。ここ数週間、フィードバックの仕方に細心の注意を払っていました。否定的なフィードバックはやめ、建設的なフィードバックをしようと肝に銘じました。プレゼンを聞くときは、身を乗り出して、笑顔で。発言をするときは、感情を抑えて、できるだけ冷静に。
もともと「エモい」人間である私にとって、これは、結構な修行です。

そして、本日のプレゼン。

今日は、いつもと違うメンバーがプレゼンに挑みました。今まで、何回プレゼンしても、なかなか進捗が見られなかったのですが、今日は、少し違いました。今まで、私たちがフィードバックしたことが、きちんと反映されていたのです。見せ方には、まだまだ工夫が必要でしたが、授業外の時間を使って、しっかり考えてまとめたことは明らかでした。プレゼンのために練習をしたこともよくわかりました。昨日の授業のネガティブな雰囲気からは、とても読み取れなかったのですが、少なくとも、まだ諦めていないメンバーがいるということがわかりました。

しかし、内容は、というと、ここ数週間停滞していた分、目標には程遠く、未だに彼らが何をしたいのかがわからない内容でした。何をどのようにフィードバックすれば、彼らのやる気を削ぐことなく、先に進めることできるのか、慎重に意見を述べていきました。

そうはいっても、彼らが何をしたいのかがよくわからない状態でのフィードバックは、なかなか難しいものがあります。「成果発表会」という場が2週間後に設定されている状況で、「やります」「できます」と本人たちは言うものの、「この状況で無理だろ〜」と、教師としては、否定的な見方になってしまいます。が、みんなで探り探り、落とし所を考えていきました。フィードバックがヒートアップしそうになるのを、意識的に抑えるようにしました。

そのときです。

先輩チームが、「今のチームは人数が多すぎる。今からチームを分けたらダメなのか」という提案を始めました。(当校では、日本語の習熟度別のクラス編成にしておらず、現在は、入学時期の違う学生たちが一つのクラスで勉強しています)
その発言までは、プレゼンの内容や、彼らが制作しようとしているプロダクト中心のフィードバックをしていたのですが、先輩から出てきた意見は、「チーム」に関するものでした。

「チームの意見がバラバラで、数週間前から、ずっと同じところをぐるぐるしている」「自分たちもそうだったけど、みんな違うアイデアを持っているから、それをまとめるのはとても大変。だから、チームを分けたほうがいい」と自分たちの今までの経験も交えてのアドバイスです。

さらに、自分たちの経験が語られます。
「以前、自分たち5人でプロダクトを作ったとき、全員の意見を取り入れようとして、機能がどんどん増えていった。やはり、みんなと同じようにぐるぐるしていた。そのとき、ボス(彼らのアルバイトのマネージメントをしていたエンジニア)から、『あなたたちのプロダクトには、コアがない』と指摘された。あれが自分たちのターニングポイントだった。そのあと、いらない機能は全部捨てて、自分たちのプロダクトはすごくシンプルになった」
「で、みんなの『コア』は何?」

先輩たちが、代わる代わる後輩たちに質問をしていきます。

私たち教師のフィードバックは、「この調査からわかったことは何か?」「ユーザーの課題は何か?」などなど、発表の内容や調査の結果に関することが中心になります。そのフィードバックは、疑問点や矛盾点をついていくもので、どうしても否定的な指摘になりがちです。「あー、また言われたよ」と、フィードバックをすればするほど、暗くなっていってしまうのです。

しかし、今日は違いました。先輩たちの自分たちの経験を交えた話を、後輩たちは神妙な顔をして聞いていました。先輩の指摘の通り、本当の問題は、チームの在り方だったのかもしれません。チームワークに問題があることを感じていても、あのタイミングで、あのようなアドバイスは、教師にはできないな〜と、先輩たちが神様のように見えました。教師の言葉よりも、先輩の言葉の方が何倍も、学生の心に刺さるのです。

授業後、今日の振り返りシートを見ると「いいフィードバックをいっぱいもらった」と、とても前向きなコメントが記されていました。「日本語を勉強したい」の文言はどこにもありませんでした。
先輩、おそるべしです。


で、改めて、「失敗原因マンダラ」を眺めてみたのですが、そこには、「先輩要素」が見つからない。今日の事例は、ある意味、成功事例なので、「失敗マンダラ」には反映されないのかもしれませんが、「先輩」とか「ちょっと先を行く人」との協働って、アクティブラーニングにおいては、結構重要な要素なのではないかと思ったのです。

というわけで、思いがけず、本日は、笑顔で授業を終えることができました。しかし、ここで安心してはいけません。これからまたしばらく活動を続けたとき、前の状態に逆戻りすることは、大いに考えられます。明日のフィードバックを基にした話し合いで、また、紛糾する可能性もあります。最後まで注意深く観察する必要がありますし、これからも「マンダラ」を眺めながらのクラス運営になっていくでしょう。しかし、なんだか今日は、とても大切なものを得たように感じています。

プロジェクト活動は、「日本語の勉強じゃない」と言いたい気持ちもわからないではありません。しかし、このプロジェクト活動の中では、確実に「ことば」のやりとりがされており、日本語を含め、より濃密な「ことば」の学びが行われていると、私は感じています。

最終的に、当初書こうと思っていたことと、方向性が変わってしまったのですが、今回は、プロジェクト型の学びの苦悩とおもしろさについて書いてみました。

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!