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大江健三郎『燃え上がる緑の木』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2023.05.16 Tuesday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

前回の『「自分の木」の下で』を読んで、四国の森が舞台となった小説を再読したくなり手に取りました。

これまで大江さんの小説の中で最も印象深く心に残っているのは、『懐かしい年への手紙』で、すでに詳細の記憶はなくなってしまったのですが、小説を書くことでここまで自己を開放することができるのだなあと、えらく感動した読書体験だった印象だけはいまだに残っています。もう一度、『懐かしい年への手紙』にしようかな……と思いつつ、それに続く作品で、執筆当時は作者自身が「最後の小説」と位置付けて書かれた(ある意味)集大成ともいうべき作品『燃え上がる緑の木』を、読み返すことにしました。(個人的には、初読の際に、『懐かしい~』の流れで読まずに時間を空けて読んでしまって、しっかり向き合わずにさらっと読んでしまった後悔を残している小説ということもあっての選択でした。)

長い小説で、一言でストーリーをまとめきることはできないのですが、やはりタイトルである「燃え上がる緑の木」がテーマとなった作品でした。このタイトルは、イェーツの詩『揺れ動く(ヴァシレーション)』という詩に描かれた「片側は緑に覆われていて露が滴って」いて、「もう片側はそれが燃え上がっている」木からとられたものなのですが、イェーツの詩の一部は以下のように紹介されています。

両極の間に/道を定めて人は走る。/たいまつが、あるいは燃える息が、/来て破壊する/昼と夜の/すべてこれらの二律背反を。/肉体はそれを死と呼び、/魂は後悔と呼ぶ。/しかしもしこう呼ぶことが正しいなら/喜びとは何なのか?

梢の枝から半ばはすべてきらめく炎であり、/半ばはすべて緑の/露に濡れた豊かな茂りである一本の樹木。/半ばは半ばながら景観のすべてである。/そして半ばが新しくしたものを半ばがついやしてしまう。/凝視する怒りと 盲目の茂る葉との間にアッティスの像をかける者は/自分の知っているところを知らぬかもしれないが、/悲しみもしらぬだろう。

※アッティスー去勢した男神

主人公は「魂のこと」をしようとして「祈り」に「集中」し、「救い主」と呼ばれるようになる「ギ―兄さん」なのですが、物語を語るのは両性具有者のサッチャンです。サッチャンが、K伯父さん(大江健三郎と思われる人物)にすすめられて、自らが経験して「自分の言いはりたいこと」を書き残したのが、このギー兄さんの「受難」の物語なのです。

両性具有者のサッチャンは、子供のころは男の子として育ちながら、大学の途中で女性として生きることを選んで「転換」した人物なのですが、「二律背反」の性を併せ持つサッチャンは、まさに、ギー兄さんとサッチャンが自分たちの教会の「しるし」として選んだ「燃え上がる緑の木」につながる存在であると感じました。「燃え上がる緑の木」は、「精神と肉体が半分ずつ、しかもそれらのおのおのが、全体としてあるかたちで共存している木」とも言い換えられていましたが、物語を通して、人間が孕む両極性が描き出されている作品だと感じました。

一見、新興宗教の物語のようにも見えるストーリー展開ではありますが、本作に神は登場しませんし、描かれているのは、皆に「救い主」と崇められながらも、自らの弱さを露呈させながら教会を捨てて「魂のこと」のみに集中することを選ぶギー兄さんです。「自分のいのちより他人のいのちを大切に」思うギー兄さんが、最後に打ち殺される結末はあまりにも惨いものですが、ギー兄さん個人にとっては、「体の内部感覚と魂の内部感覚」という両極の中で悩み迷い続け、追いつめられてもただ「魂のこと」をしたいと願うところに行きついた結果であり、それこそが、ほかならぬ自分として過去と未来に繋がる方法であることを考えると、彼自身が選び取った結末に後悔や未練はないと感じました。だからこそ、サッチャンは、この物語の中心には「ギー兄さんの受難とその乗り越え」があり、かつ、「私がついにはどのように自由になったか」を述べたいと記していたのでしょう。

物語を締めくくる「Rejoice!(喜びを抱け)」の言葉は、サッチャンの耳で鳴っているだけでなく、弱さと強さの狭間でもがきながらも自分らしくそこに存在しようとする私たち読者へのエールでもあると感じました。