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黒人差別を考える

右に、左に、いくら寝返っても、寝付けなかった夜。
はじめの二時間はそれでも、寝ようと頑張った。
典型的に羊を数えることまでしてみたが、
まったく効果はなかった。

そこからは、もはや、寝る努力すらあきらめた。
いくら努力しても寝れないことに気がついた私は
スマホに手を伸ばした。

facebookやinstagramなどのSNSを開いてみると
blackoutday、blacklivesmatterとハッシュタグがついてるだけで、
真っ黒な投稿が一面を陣取っていた。
大人だけでなく、大学生や高校生ですらもアメリカの動画や投稿をシェアーしたり、自分の思想を黒に乗せてSNSであらわにしていた。

この騒ぎにわたしは、これまで何も言わずに、投稿もせずに、意思表示もせずにいた。それは決して賛同していないというわけではない。本当に残念な事件だったこと、そして、差別は良くないということを私はつくづく感じてはいる。

けれども、どこか、今回の騒動に違和感を感じずにはいられなかった。
いったい人々は何に賛同をして、声を上げているのだろうか。何が良くないと思っているのだろうか。という疑問がわたしの中であった。

黒人差別に対して声を上げているのだろうか?こんな形で命をなくしてしまった方(方々と言った方がいいかもしれない)に思いを馳せて声を上げているのだろうか?差別そのものに反対して声を上げているのだろうか?中には、行き過ぎた暴動に声を上げている人もいるかもしれない。
さらには、遠いアメリカなどの海外で起きていることだと捉えて声を上げているのだろうか、日本にも潜んでいる事柄だと捉えて声を上げているのだろうか。
第三者として声を上げているのだろうか、それとも被害者として声を上げているのだろうか、はたまた加害者として声を上げているのだろうか?

わたしも、おそらくこれを読むあなたも、
世界的にはいわば、有色人種。つまるところは差別を受ける立ち位置にある。けれども、日本にアジアに生きている限りは有色人種だという実感すらないかもしれない。

日本という島国で、わたしは肌の色的には普通だし、マジョリティだ。嫌な表現をするなら、合格である。けれども、中国の血をもってして生まれたわたしは、血の色的にはなんら変わらない、普通であり、合格であるはずなのに、マイノリティーであり、いわば不合格なのだ。

実際、小さい時は、不合格だという風に感じ、どこか負い目を感じていた。ひどいいじめをうけたような経験はなかったけれども、多からず少なからずのからかいを受けたり、白い目を浴びたりはした。そこに差別という概念があったことは言うまでもない。わたしは被害者だった。

中学生の時は、クラスで不思議な挙動をしていた男の子を仲良しグループの女の子でからかったりして、先生にこっ酷く怒られた。今思えば自分と違うことをしていただけだったとわかるのに、あの時はよくわからなかった。思い返すと本当に情けない。そこにも差別という概念があったことは言うまでもない。わたしは加害者になっていた。

中学生の時、先生がお気に入りの生徒をえこひいきし、クラス内からブーイングが起きた時に、その先生はこのような一言を発したことを今でもはっきりと覚えている。

「これは差別ではない、区別だ」

この一言に大きな衝撃を受け、クラス一同さらなるブーイングの嵐だった。先生はどこかから引用してきたのかもしれないけど、初めて耳にした理論に中学生のわたしたちがその先生にさらなる嫌気をさした。

差別と区別はちがうのか?同じなのか?
中学生のわたしには、理解ができずにいたけれども、あれから十数年間経った今でも、よく分かっていない。差別の定義とはいったいなんなのか?

わたしの中にはみんなと違う血が流れている、違う文化を持っている、違う言葉を話しているから、わたしは被害者になった。
そして、中学生のときは、あの男の子が自分たちとは違う挙動をしていたから、わたしは加害者となった。

つきつめて考えると、差別の根底にあるのは違いであるのだと思う。

わたしたちの中には、何かしら基準があり、そこから外れると、ブッブーと。
それはまるで、法律があって、法を犯すと、トントン、有罪と裁かれるようなものだと思う。

この文化の中で、自分の中で基準を定め、それとは違う者を変だと、普通ではないと、さばいたり、さばかれたりすることに私たちは慣れてしまっているし、さばくという価値観の中で育ってきたと思う。

「さばく」、「差別」はしていないという人がいるかもしれない。
けれども、もっとくだいて言うなら、私たちは「優越をつける」価値観の中に生きているのではないのだろうか。

成績で人の能力をはかったり、
お金を持っているか持っていないか、
病気があるかないか、
容姿、出身、身長、体力など、
ありとあらゆる面において、わたしたちは基準を定められた世の中で、その基準との違いからさばきさばかれ、そして、優越をつける世界で生きている。

あなたは95点、合格。
あなたは56点、不合格。
あなたはかっこいいから、かわいいから
あなたは背が低いから
あなたは生まれつき病気を持っているから
あなたは貧乏だから
あなたは男だから、女だから
・・・・と。

それは、あなたが望んだことでも、私が望んだことでもないと思う。
私たちが生まれた時から、この世界はとうの昔からそのような仕組みの中で成り立っている。黒人差別は意識的なものか、無意識的なものかは、当事者ではない私にはわからないけれども、すくなくとも、この世界の仕組みに生きる私たちの潜在意識の中には、もう差別というものが根付いているのだ。無意識的な差別がすでにそこにはあるのだ。

けれども、一体わたしたちに、誰かをさばくような権威はあるのでしょうか?
誰なら人をさばいていいのでしょうか?
わたしやあなたの持っている基準、正義はどこまで真理なのでしょうか。神さま・お天道さまでもない限り、あなたにもわたしにもそのような権威はないのではないしょうか?

人をさばくより、差別するより、
違いを認めて、受け入れるべきではないのでしょうか。
高慢になったり、自己卑下したりするのではなく
自他のアイデンティティの一つとして受け入れていくべきではないのでしょうか。

わたしは、中国の血が流れていることに嫌気がさし、自己卑下したこともあったけれども、今となっては、むしろそれはわたしのアイデンティティであり、大切なものとなっている。
その血自体には何も変わりはないのに、私自身の捉え方が変わっただけで、そのもののもつ意義を大きく変えることができた。

今回の黒人差別の騒動に賛同し、声を上げることはとても大切なことだと思う。けれども、その時に、その根底にあるものをさぐり、考えて行く必要があるのではないだろうか。その根底にあるものを見出せない限り、今回を機に「黒人差別」がなくなったとしても、この世界における「差別」がなくなることはない。

むしろ、差別する対象が減った分、新たな対象が生まれるのではないだろうか。

さばく、優越をつけることが当たり前な世界の中で、さばこうとする優越つけようとすることを手放してみたら、この世界で見える景色がまた一段と変わってくるのではないだろうか。

苦しみの中にある方々に思いを馳せつつ。

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