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写真と、莫大な情報の渦中にて trialog vol.2『ヴィジョナリー・ミレニアルズ』より

今回のエントリは価格が設定されていますが、最後まで閲覧することが出来ます。

インターネット以降のなかでも、とりわけスマートフォンに代表されるモバイルコンピューティングが浸透してからは莫大な情報量で溢れかえるようになった。それはテキスト、映像、イラストレーションなど個々の表現媒体の意味合いを大きく変化させた。その中でも写真表現に関しての変化は大きい。

各種SNSの発達により、日々に生産され発表される写真の総量は紙媒体が主なメディア時代から考えれば莫大な量に変わった。アナログ⇒デジタルという根本的な変化に加え、公開メディアが紙媒体⇒インターネット⇒モバイルコンピューティング以降のSNSに変遷したことで、写真のリアリズムは時代ごとに大きく変わってしまっている。写ルンですからインスタ、インスタ世代が逆に写ルンですを再発見するというその流れのなかにそうした変化があるといっても過言ではない。

2018年7月28日土曜に行われた、今回のtrialog vol.2ではまさしく20代から30代を指すミレニアル世代と上の世代にとっての写真とメディアの解釈を、セッションごとに世代を分けることでジェネレーションギャップを見せていくコンセプトがあると思う。

だが実際のセッションで見えたのは、もっと多元的なギャップだった。以下、筆者自身の思考やセッションに対しての感想を中心に構成している。それゆえ会場に来場されていた方、またはWebでのライブ映像でトークを聴いていたならば、事実と異なる印象を受ける可能性はある。実際のトークの記録に関しては、Twitterでのtrialog公式アカウントによる7月28日のツイートをご参照いただきたい。

session1 『ミレニアル世代』の中のデジタルとアナログ、現実の記録と情報のクラック、日本とロシアのギャップ

(右から小林健太氏、マリア・グルズデヴァ氏、太田陸子氏)

特に旧来からの写真表現の変化に直面しているミレニアル世代にとっての写真とは何か? 写真誌『IMA』のエディトリアルディレクターである太田陸子氏をホストにsession1はスタートした。

自分自身も現在30代であり、その世代に当たるのだろう。自分の感覚を正直に言えばアナログの写真表現による、フィジカルな現像の過程にはあまり思い入れはない。10代のころはデジタルカメラや携帯電話のカメラのほうがなじみ深かった。写真とはすでに情報でありデータであるというリアリズムだ。観る側としては森山大道のような、圧倒的なフィジカルの強さには憧れはあるが、それが自分自身のリアリズムと地続きではないのは確かだ。

同じ世代の知人が写真を学ぶとき、むしろ旧来の土門拳みたいな手法のほうに向かっていくというのが他人ながら解せないものがあった。写真というものの美の慣習や形式というものが昭和から出来上がっていて、そこに流れていくのをたくさん見ていた。だけどそれは自分が生まれ育ったリアリズムに忠実だったといえるのだろうか? 

「プリクラで取った写真を加工することが原点なんです。」小林健太氏は写真についての原体験をそう語る。小林氏の写真は伝統的な手法というものから切り離されている。すべてデジタルで制作、撮影後に「モデルをやせたように見せるよう加工するツール」などを使用して徹底的に写真を歪めてゆく。

自分は現代美術のゲルハルト・リヒターを思い出したけれど、あくまで見た目だけでコンセプトは別物である。写真はすべて情報やデータの一種だからクラックやハックのように取り扱うことにためらいはない、写真の表現とはある現実を記録するものであるという前提とは違う、加工前提の平面表現である部分に自身のリアリズムと地続きのものを感じた。(ちなみに情報のハック、クラックといってもフェイクニュース的な意味とは別であり、ここでは純粋に平面表現としてのみ書いている。)

写真以外の試みも披露された。『スプラトゥーン』の対戦映像を元に、1フレームずつ手書きで写真と同じような加工を行った映像作品だ。自分が最近20代前後のアニメーションを取り扱った上映会の取材をやっていたのもあって「これもちょっとしたアニメーションじゃないか?」なんて思ったりもした。(短編アニメーションも許容している範囲は広いので、小林氏のこの方向性によるアニメーションとも言えるのだ。)

対照的なスタイルを語ってくれたのがマリア・グルズデヴァ氏だった。彼女の写真は従来のカメラから印刷、ロシアの宇宙センターなどを訪れ、現地の状況を撮影者のテーマによって撮影していくなどまさしく伝統的な写真家のスタイルといっていい。

逆に彼女がなぜ、過去20年で進行したメディアの変化や撮影機材の変化でデジタル型のリアリズムにならず、情報をクラックするような作りにならなかったのか? 自分の疑問は彼女自身で説明で晴れていく。「ロシアには急速な変化がありました。テクノロジーの変化だけではなく、急速に変わる世界を捉えたかったのです。」

グルズデヴァ氏の経歴とロシアの現代史は歩みを同じくしている。1989年生まれの彼女は、ものごころがつくまでにソ連が崩壊、成長していく中で社会体制が激変していく。

彼女は写真表現を現実の記録としての軸足を置いている。伝統的な写真表現が徹底して現場に赴き、自分の手でフィルムから現像する過程も含めて写真があまり加工されない方向を取っていると言える。時にスナップみたいに軍人の姿も映す軽さも見せる一方で、徹底して覆せない事実の記録として写真表現を選択している。

小林氏とグルズデヴァ氏は同じミレニアル世代だと括られているが、現実にはふたりには複数のギャップがあった。小林氏の写真はデジタル以降や写真作品を仕上げるうえで徹底してゆがめてしまっても構わないという姿勢、一方のグルズテヴァ氏にはロシアの圧倒的な社会の変化とともに自身が育っていったという現実が表現に関係している。

そこにはアナログかデジタルか、というだけではなく、現実の記録か情報の加工か、果ては国家的な環境のギャップ、あるいは個人の志向のギャップといった複数の差が見られた。

そもそものミレニアル世代というくくりが原語の❝Millennials❞はアメリカ発の用語だ。その世代的なくくりは各国でどれくらい機能するものなのだろうか。同じ世代だからと言ってもその出自や表現のベースによって大きくギャップは生まれる。次のセッションにてそれは確定的になった。

session2 アートとコマーシャルのギャップ

(左から平澤賢治氏、ムラカミカイエ氏、福原寛重氏)

session1でのミレニアル世代からのギャップを狙い、こちらでは少々上の世代を登壇させている。session1のメンバーが写真家としてのファインアートとしての活動が主だ。こちらでは、もうすこし写真にまつわるアートとしての文脈の部分とコマーシャルの側面について語っている。

小林健太氏のアプローチを(どういう意図であれ)アート的だ、形容することができるだろう。だけどsession2に登壇された平澤賢治氏の作品はよりアートとしての写真とはどういうことかのディテールが細かい。

彼が語るのはサーモグラフィーを利用した手法による写真だ。サーモグラフィーによってデータ化された画面をそのまま写真に持ってくるというのは、こちらも写真というものを現実の記録的な側面よりもデータ的な意味合いで解釈していると言える。

だが平澤氏がサーモグラフィーの手法で掘り下げるのは、むしろ被写体のもつ生命のあり方である。平澤氏は温度を持たない人間とのコントラストを強調する意味で、当初は遺体と生きた人間との生命のギャップをサーモグラフィーを通すことによって表現することを考えていたという。

だがそれはさすがにやりすぎだということで、ギャップを表現するのはマダム・タッソーの館を利用することにしたという。これはロンドンにて著名人を蠟人形化したものが展示されている美術館であり、来場者と蠟人形の温度差によって生きた人間とそうではないものとのギャップを狙うことができるとのことだ。会場で映された写真は、全く体温が映されない蠟人形と、そのまわりに集まる観客の体温の誤差という独特の美しさと不気味さが強調されたものだった。

平澤氏はさらに、サーモグラフィーのデータを数字で表現したバージョンも公開。生命の有無、という氏のテーマを理解しつつ、数字のみで構成される被写体。そこには生命をデジタル数字で表現するコンセプトの美術家・宮島達男の作品を思い起こすものがあった。そう感じた矢先に、もうひとつのギャップを思わせる発言が現れる。

「写真におけるクオリティって、商業においては観る人の欲望を引き出すものなんです」ムラカミカイエ氏は自身の関わってきた仕事の中での写真についてそう答えた。「SIMONE INC.」代表として様々なブランディングやコンサルティングに関わってきたムラカミ氏の発言は、コマーシャルとしての立場でありながらもアート表現に関しての意味、そして現状の写真を取り巻く環境の変化を冷静に説明する。

ムラカミ氏は平澤氏の作品の持つ批評性についても言及する。蠟人形と生身の人間をサーモグラフィーで撮ったシリーズを取り上げ、「アート以外で批評性のあるメディアがなくなってきた」ことを話す。

アート性とは自己表現というよりも、突き詰めればある文脈を取り扱い、それが現実に対してどういう意味を持つかを切り取っているということが多い。批評性とはそういうことだと思う。(自己表現という言葉でイメージされるような、表現すべきと思いこんでいる自己というものは、ほんとうのところ大抵はたいしたものではないのだ。) 

ただムラカミ氏の指摘する批評性はもう少し広そうだ。「メディアが批評性を担うものだった。」現行のメディアが何かそうした現実に対しての言葉を失っているともとれる発言も見られた。ただ自分はアートの持つ批評性とは全体の一部分の要素であり、メディアがやるべき批評性とは別の職能であると判断している。

「メーカーの立場だと自分の生活に入るものがクオリティ。商業とアートの違いやギャップはあります。」ソニーのクリエイティブセンター、チーフアートディレクターを担う福原氏はよりコマーシャル側に寄った発言である。3者の立場はちょうどアート~コマーシャルの対照がコントラストになっている形だった。この後session1のメンバーを意識した世代間のギャップの話にもなる。だがそれは実際のところあまり機能していないように思えた。

それぞれの立場から話題は、むしろスマートフォンやSNS以降の写真の価値の変容についてにウェイトがかかっていた。ムラカミ氏は「写真の社会的意義が変わってきた。」「昔の写真の量は今の数億分の1くらい」と写真1枚の持つ価値が変容することについて語る。平澤氏はSNSはやっていないことを前置きしつつ、「私見では、写真一枚のクオリティというよりも、作家の生き方が出るかどうかで帯びる意味が変わってくる。写真はイメージだと捉えている。」と語る。

そこにはアートとしての表現をする側と、コマーシャルの側だが広い意味で状況を見通す側、コマーシャルとしてプロダクトに関わる側という、アートとコマーシャルそれぞれの立場の問題意識のギャップというものを見ることもできた。情報の莫大化によってもスタンスが変わらないものもあるが、しかしメディアそのものの価値や意味は激変する現実については次のセッションが掘り下げる形になった。

Session3 紙媒体とWEB媒体のギャップ

(右から平山潤氏、シャオペン・ユアン氏と通訳、若林恵氏)

モバイルコンピューティング以降の情報の莫大化によって、フィジカルメディアである紙媒体が後塵を拝しているというのはよく見られる現象である。写真もそうだが、紙媒体としてのメディアの価値や意味はどうなっているのか? trialog代表を務める若林恵氏は「なぜ若い人たちは紙の雑誌に惹かれているの?」と率直に聞く。

「なぜそうするのかというと、紙媒体はWEBの中で拡散されるわけではない。」「(情報の)寿命が長く、建築物のようにあり続けてくれる感覚があります。」中国のシャオペン・ユアン氏はそう答えていた。彼はインディペンデントで雑誌を出版する写真家だ。主に発行している雑誌「Closing Ceremony Magazine」は友人とともに作っていると話す。編集方針は全世界のミレニアル世代の作家をチョイス、のみならず下の世代の作家などを網羅しているという。主にインターネットを使うことで作家を探し当てているとのことだ。

ZINEを作る友人たちは、不本意な拡散に抵抗感を持っているんです。」『Be inspired!』(今秋より『NEUT magazine』にリニューアルを予定)編集長を務める平山潤氏はそう話す。「雑誌と比べると、WEBは断片的ですね。」

インターネットを利用しつつも、写真やテキストと言った情報ひとつひとつの価値や消費のスピードに危惧を抱く発言がいくつも見られる。この点はWEBサイトへの寄稿や複数のブログを運営している自分も痛感していることであり、自分自身がテキストを書くときには(紙媒体を読んできた慣習もあり)、無意識に長く読まれること、そして「誰が書いたのか」ということそれぞれが残ることを期待して書く。

しかし実感としてはどの熱量を持った記事であろうと、それがすぐ消費されていくし、読まれたとしてもそれは情報が読まれたに過ぎず、記名記事とはいえ、自分自身のものとして読まれていないのではないか。(これはシンプルに書き手のエゴの部分もあり、それは個人的なことでくだらないものだとしても、ライターとしてのキャリアの問題で個人の価値をどう上げていくかという意味もある。)

WEB媒体が基本となった時代においての紙媒体(それも媒体によるが)への価値というのは、自分にとっては情報という価値以上のものとして取り扱われること、書き手自身を認識させるものでもある。特にインディペンデントで出版しているというシャオペン・ユアン氏のスタンスには共鳴するものがあった。「我々世代がどうやって世界を捉えているかを提示したい」

session終了 

世代間ギャップというものこそなかったものの、細部では伝統的な写真スタンスとデジタルで加工が当たり前なスタンスとのギャップ、国家間のリアリズムのギャップから、アートとコマーシャリズムのギャップが見られた。

たいていのギャップとは互いの立場の無理解によって実りのない内容になってしまうことが多いだけ(それこそ自分が普段見るようなインターネットではに、登壇者それぞれが立場やギャップを上手く意識して語られることで、今日の莫大な情報化時代におけるスタンスをそれぞれが表明してくれたと思う。

(今回の画像はすべてtrialog様のオフィシャルでメディアにリリースされたものを使用しています。)

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