見出し画像

私のしっぽは動かない

「よーいドン!」
 牢屋役の子のかけ声で、クラスのみんなが一斉に走り出した。早速地元のサッカークラブに入っている男子が、三、四人で走っている女子のしっぽを片っ端からタッチしに行った。女子たちは牢屋行きになったのに、きゃあきゃあ楽しそうだ。サッカー男子は敵チームを全滅させると意気込んでいたけど、もう二人の女子を牢屋送りにしたところで、クラスで一番背の高い女子にあっさりしっぽを掴まれた。積極的に人を追いかけていく子は狙われやすいし、自分の後ろを守るのがおろそかになる。
「ジュンヤー、助けに行くからな!」
 捕まったサッカー男子の味方の叫ぶ声が、校舎に反射して響いた。
 今日私はあんまりやる気がなくて、校庭の端の、桜の木や鉄棒がある辺りまで一人で逃げてみんなの様子を見ていた。空には雲一つなくて、十月の午前中はまだまだ暑かった。少し頭がぼうっとして、砂地を蹴る音がこちらにやってくるのに気付くのが遅れた。敵チームの男子がすぐ近くまで来ていた。
 私は校庭の真ん中の方に走り出した。追手は急カーブを強いられて体勢を崩したので一旦距離が開いたけれど、タッチされるのは時間の問題だった。私たちは校庭の真ん中に来ていたので、クラスの他の子たちも近くを歩いたり、私たちを見てゆるく逃げたりしていた。全力で逃げている私なんて諦めて、他の子に狙いを変えてくれればいいのにと思うが、追撃は止まず、私の息は段々あがってきた。ついに彼が真後ろまで迫ってきて、しばらく前後並んで走る形になった。わざとしっぽを触らずに、ずっと走らせようってことなのと思っていると、後ろの足音がやんだ。
「いつまで逃げてんのー」
「えっ」
「しっぽもうタッチしたって!」
「あっごめん」
 変なのは彼ではなく、私の方だった。大抵の子は「タッチ」って言ってくれるから、触られたかどうか分からなくてもうまく反応できたけど、そうしない子もいるんだ……。牢屋である朝礼台に向かっていると、私を追いかけていた男子が喋っているのが聞こえた。
「中島のこと好きなん」
「ばっか、ちげーよ。タッチしたのにまだ逃げてるんだもん」
「まじか、天然じゃん」
 私はびくっとした。しっぽが変だと、私も変になっちゃうんだ。

 クラスメイトの女の子の家に遊びに行った時、「私って天然だと思う?」と聞いてみた。その子はしっぽをゆらゆらさせて、頭の斜め上に目を向けて少し考えた後、こう言った。
「ちょっとそうかな。えみりちゃん、表情としっぽが合ってない時あるし。でも嫌な感じは全然しないよ! えみりちゃんのそういうとこ、好きだし」
 付け足してくれたフォローが痛かった。これが、自分のしっぽについてモヤモヤしはじめた最初の思い出だ。
 私のしっぽはうまく動かない。

◇◇◇
 
 六時間目のチャイムが鳴っても教室は休み時間の雰囲気のままで、みんなのおしゃべりは止まなかった。新田くんと私は教壇の前に立っていたけれど、担任が来ないので気が緩んでいるのだ。
「今日は体育祭について決めることがたくさんあるから協力してー」
 そう言いながら、私は前列の生徒にプリントの束を渡した。みんながばらばらと席に着きはじめ、全員が着席した頃に谷川先生が教室に入ってきた。
「おっ、うちのクラスは優秀だなあ」
 白髪交じりの頭にループタイ姿の先生は、しっぽ一つ動かさずのんびり言った。こういう調子は本気なのかわざとなのか。私と新田くんは目配せし合った。
「我が高校の体育祭には、各競技の他に二つの企画があります。創作ダンス応援合戦と、応援立て看板です。創作ダンスは同学年二組合同、応援立て看板は各クラスで作成します。それぞれ出来栄えを全校で競い合い、教職員が採点、上位各三チームは閉会式で表彰されます。また、クラスTシャツ作りも恒例ですが、これは任意です。創作ダンスのテーマに合わせて、帽子にしたり長い鉢巻きにしたりするクラスもあるそうです」
 生徒会からなのか、学校からなのか分からないプリントを私が読み上げると、一旦静まった教室が再度ざわめきだした。
「創作ダンスは一年三組と合同になります。五分後に希望を取るので、ダンスか立て看、どっちにしたいか考えてください。Tシャツのデザイン担当になりたい人も同時に聞きます」新田くんは生真面目に声をかけたが、みんなとっくにその話をし始めていた。
「中島さんは何にするの?」
「立て看かな。ダンスは自信ないし」
 私はずっと垂らしていたしっぽをさらに足の間に割り込ませるようにしてみた。新田くんのしっぽは彼の背後でピンと立ち、浮ついた感じで小刻みに揺れている。
「意外。中島さんなんでもできるし、ダンス向いてそうなのに」
「はは、そうかな。でもまあ美術部だし立て看にするよ。新田くんは何にするの?」
「中島さんと一緒。立て看にする」
 わざわざ私と一緒って言う? と思うけど、スルーして私は言った。
「そっか。じゃあ頑張ろうね」

「美晴は体育祭何にすんの?」
「ダンス一択じゃん?」
 裏切り者、と言うと美晴は黒くて艶のあるしっぽをくねらせて、だってそっちのが楽しそうだもんと言った。美晴は中学でバレーをしていたから、体を動かすのが苦ではないのだ。
「うちのチーム、チアガール風にするらしいよ。絶対可愛いじゃん」
「もうテーマ決まってるんだ。でも男子はどうするの?」
「さあ……? で、えみりは立て看なんだ」
 美晴が私のスケッチブックを覗き込んで言った。
「そう。時間内にダンスのテーマ決めきれなかったから、立て看から先に考えてみてよって言われて。『三組の立て看どうするの』って訊いたら、三組と四組で一枚の立て看にしない? だって」
「うわ、丸投げ。みんなえみりに頼りすぎ。でも確かに二枚繋げると大きな絵に出来るし、カッコいいかも」
「ねー。どうせだから好きなようにやっちゃおうと思って」

 私たちが絵を描かずに雑談している間、部室の後ろの方では三年生の先輩が二年生の先輩をモデルに絵を描いていた。美術系の大学を目指していると言っていたから、受験対策の一環なんだろうか。モデルはTシャツにハーフパンツ姿で、横を向いて片足を軽く上げて立ち、しっぽは上がっている方の足より少し高い位置でJの字にカーブさせていた。
「……ありがとう。ざっと形取れたよ」
 三年生の言葉で、モデルだった先輩は大きなため息をついてポーズを崩した。
「しっぽ震えてませんでした?」
「全然。あの微妙な角度、キープするのきつかったよね」
「姿勢自体はそこまできつくなかったけど、しっぽの角度のせいで、妙に悲しくなってきたのが地味に辛かったっす」
「あーそれは気付かなかった、ごめん。しかし体操着だとどうしても体の線がわからないな。ねえ今度ヌードに」
「ムリっす。それはムリっす」

「ってか新田くんとはどうなったの」
 全員で静物―オレンジと陶器の取っ手付き水差し、ガラス瓶に活けられた紫陽花―のデッサンをしている時、隣の美晴がこそこそ話しかけてきた。
「別に普通……一緒にホームルームの司会やっただけ」
「えー秘密主義。前は『ちょっといいかも』って言ってたじゃん?」
「なんも隠してない。うん、言ってたけどね……決め手に欠けるっていうか」
「まじかー」
「もうすぐ先生戻ってくるよ。描かなきゃ」
 確かに先にいいなと思ったのは私の方で、気のある素振りを何度かしたことがあった。でも、イケそうだと思ったからようやく来た感じがして、それはずるくない?って思ったら冷めてしまった。

 絵を描くのは好きだ。私はさっきの先輩のようにモデルはできないし、絵でもうまく表現できないことはしょっちゅうあるけれど、描けば描いただけ、手が自在に動くようになるのが楽しかった。絵に没頭している瞬間は、テストのことや進路のこと、自分の性格やしっぽのことを脇に追いやることができるのも、私が絵を描くのが好きな理由の一つだ。美晴が新田くんのことを持ち出すので、手に意識が行き渡らなくて、私は静物全体の構造を捉えるふりをして、先に新田くんについて考えてみることにした。
 新田くんはいい人なんだと思う。地味だけど、よく見ると顔や言動が洗練されているのもいい。だけど、私をクラス委員に推すクラスメイトと同じで、しっかり者の私、しっぽのあまり動かない、クールな私のことを見てるんだと思う。私の表面はそういう風だから当たり前のことなのだけど、新田くんのあの瞳を見ていると、もし付き合い始めても、ずっとその自分でいないといけないのだろうなと考えてしまう。そして、それでもいいから付き合いたいというほど、私は新田くんに惹かれていないのだった。
 私はようやく新田くんを脇に追いやることに成功して、オレンジの描きこみにかかった。何を描く時でもそうだけれど、鉛筆の先まで意識を通さないと、ただ表面を描き写すという平面的な描き方になる。目の前のオレンジをちゃんと見られずに、自分の中にあるイメージとしてのそれを描いてしまう。まさに目の前にあるこのオレンジはどんな存在感でここにあるのか、どれだけの重さで、どこがどう歪で、皮をめくったらどんな風に果汁がしたたり落ちるのか。人間相手なら嫌がられる踏み込み方も、絵の対象についてはむしろ推奨される。
 立て看どうしようかなあ。美晴のところだけがライバルじゃないけど、ポップなイメージとは逆の、格調高い感じにしたらどうだろうか。たとえば「祈り」をテーマにするとか。白拍子や神官の舞。巫女が鳴らす神楽鈴の音。立て看板も白と赤を基調にして、二枚で一セットだけど一枚でも成立するデザインにできるといい。私はアイデアがすんなり出たことに満足していた。

 翌日、早速出来上がったラフ画を立て看チームとダンスチームの双方に見せた。ダンスチームのリーダーは底抜けに明るいテーマを期待していたみたいだったけれど、「どうせなら目立ちたいし、一位取りたくない?」という私の言葉にぐっと来たらしかった。
 振り付け担当は三組の男子で、陣内くんといった。全体に日焼けしていて、頭の側面の髪に赤いメッシュを入れた子で、背も高くて迫力があった。男子はストリート系でも、ダンスじゃなくてスケボーとかBMXとかバスケの方に行くような印象があったから意外だった。はじめましてだよねと挨拶すると、向こうも軽く会釈を返してくれ、早速イメージについて話し合った。
「伝統芸能は緩やかな動きが多いから、ストリートダンスと舞の要素を合体できるとメリハリができていいと思う。YouTubeに動画あるかな」しっぽで舞の動きの残像を表現できるといいかもと、既にイメージを膨らませている。
「なんとかいけそう? むちゃぶりじゃない?」
「それ言ったら俺らが中島さんに全部投げたのもむちゃぶりじゃん。いいアイデアだし、やったことなくて楽しそうだから全然いいよ」
 初対面なのに、美晴と同じようなことを言う人に会ったと思った。他の人は、あれをむちゃぶりだと言ってくれなかった。驚いたのに、嬉しかったのに、私がしっぽを揺らした時には、陣内くんはリーダーの方を向いてしまっていた。

◇◇◇

 首の筋が引っ張られて息が苦しかった。こめかみにはじっとりと汗が浮かび、頭の内側がじんじんとして、視界が霞んでいった。カウントを取っているイツキさんの声が、小さくなったり大きくなったりした。
「さーん、にー、いーち、おしまいっ!」
 ベンチに倒れ込んだ私の代わりに、イツキさんは私の体から器具を外してくれた。体のごく一部を動かすだけなのに、全身疲れてしまうのはどういうことだろう。水筒のお茶を飲んだ後も、背骨の一番下は痺れたような熱さを保ったままだった。
「みりちゃんお疲れー」
 えみりという名の私を、みりちゃんと呼ぶのはイツキさんだけだ。
「しんど。イツキさんまじ鬼」
「こんな優しい鬼いないって。さーあとはマッサージね」
 オイルをまんべんなく広げた両手のひらで、イツキさんはうつ伏せになった私のしっぽをそっと掴んだ。触られる瞬間は良く分かるけれど、それはイツキさんがしっぽを持ち上げたので、お尻や太ももがそれを感じ取ったに過ぎなかった。筋肉マッサージをされているはずの、しっぽ自体の感覚はうすぼんやりしている。
「どう、触られてるのわかる?」
「ぼんやり……」
 私が小さい声で言うと、イツキさんはふうんと軽く鼻を鳴らした。
「感覚が出てくると、他人に触られるの恥ずかしくなったり不快に思ったりする人がいるのよ。だから小さい変化でも、遠慮なく言ってね」
 さっきの「ふうん」は「まだ感覚が分からないのね」という落胆じゃなかったんだとホッとする。イツキさんはこういうところがとても上手い。
「私、イツキさんなら別にいいけど」
「あら、嬉しいこと言うわね。でもあたし、オンナには興味ないのよね」
「知ってるー」
 リハビリの後に塾に行くこともあるけど、今日は真っ直ぐ家に帰った。マンションのドアを開けると、ママがもう帰ってきているのか、部屋には灯りがついていた。奥からは食器を洗っているような水音が聞こえてくる。
「ただいまあ」
「おかえりなさい、リハビリどうだった?」
「いつも通りだよ。でもなんか疲れたから夕飯まで寝てていい?」
 私はそう言うと自分の部屋に入ってドアを閉め、カーペットの敷いてある床に倒れ込んだ。リハビリはしばらく必要だと言われているけれど、全然良くなっている感じがしない。補助具を付けていればそんなに困らないのだし、感覚を取り戻したり自力で動かせる範囲を増やしたりする必要あるんだろうか。ここ数回、今日こそイツキさんにリハビリの中断について相談しようと思ってステーションに行くのに、言い出せずに帰ってきてしまうということが続いていた。イツキさんはこれまでのトレーナーの中でも一番面白い人だから、リハビリをやめて関わりがなくなるのは淋しいけど、そんなことでリハビリするかしないかを決めていいんだろうか。

 健診で私のしっぽに異常が見つかったとき、はじめはパパもママも積極的に治療するつもりはなかったらしい。命に係わるものではないのに、幼い子に複数の検査や手術を受けさせるのは可哀想というのが主な理由だったそうだ。
 しかし私の学年が上がるにつれて、パパとママは、しっぽが動きにくいことを放置すれば、思った以上に娘を生きにくい状況に放り込んでしまうことになると考えるようになった。お友だちとのやり取りがぎこちなくなる。ちょっとしたことで誤解を受ける。そういったことの積み重ねは、仲のいい友達が作れなかったり、いじめに発展したりするだろう。そうなってからでは遅いと危機感を抱いたらしい。
 両親が私にしっぽの手術を受けさせることを決めたのと、私が動きにくいしっぽに合わせて、自分の性格を演出しようと決めたのはほとんど同時期だった。結局最初の手術だけでは動くようにはならなくて、骨の成長を待って再手術したり、脳の指令をしっぽに伝えるための補助具を付けたり、今日みたいに筋力強化のリハビリをしたりしている。しっぽのことは、親しい人にしか知らせていない。両親が最初「そうした方がいいよ」といい、私もその通りだと思って従い、現在までその方針は続いている。

 本来、しっぽは心に連動して勝手に動いてしまうものらしい。小学校の頃、はじめてしっぽのことを打ち明けた友達が、涙ってすぐには止まらないでしょ、しっぽも一緒だよと言っていたけれど、補助具の性能的な問題なのか、私は「よし、しっぽで気持ちを表現しよう」と強めに思わないとそれっぽく動かせなかった。感覚も鈍いから、満員電車では気付かないうちにしっぽが他の人に触れてしまわないよう、いつも以上に強く体に沿わせる必要があった。海外では、親しい人への親愛の情を示す際、しっぽを絡ませるのが習慣になっている国もあるという。私がそれを聞いた時、大人になるにつれて、身近な人としかしっぽを触れさせなくなる日本に生まれて良かったと思った。

 夕食は私の好きなホワイトシチューだった。「もうシチューの時期じゃないけどごめんね」とママは言っていたけれど、魚介の入ったさらりとしたシチューは私の中にするすると入って、内側から私を温めてくれた。
「さっき疲れたって言ってたけど大丈夫?」
 中学の頃だったら、ママからのこういう言葉を、しっぽのことで探りを入れてきたと警戒していただろう。私は微笑んで首を振った。家の外ならしっぽも動かすところだけれど、家では無理していると思われるので垂らしたままだ。
「気にしないで。学校で体育祭の準備が始まって、初めてのことが多かったから疲れただけ。立て看描くことになったよ」
「ああそう、ともかく無理しないようにね。体育祭の参観ができないのは残念。出来上がったら写真撮って見せてちょうだい」
「りょうかい」

◇◇◇

 立て看は若干の微修正はあったものの、ほとんど私のラフ画のままアイデアが採用された。水干と立烏帽子を身に纏った二人の女が、扇を持った手を水平にあげている姿を左右対称に配した。三組が赤を基調に、四組が白を基調にしていて、女の長く黒い髪、扇のように広がる九本のグレーの尻尾(女は狐の化身なのだ)と合わせて三つの色味しか使わない。
 立て看は本来なら各クラスの教室で制作するけれど、二枚の印象を揃えるために、うちの教室で二クラス一緒に作業することになっていた。私は立て看に貼った模造紙にラフ画を書き写すという最初の作業を受け持ったので、色塗りは他のメンバーに多めに分担してもらっていた。放課後は大抵美術室にいるから、時々部活動を抜けて教室を見に行けばいいのだし。
 今日は九本の尻尾の色塗りをする予定だった。看板のどこかに全員の名前を入れるという案が出て、尻尾が一番デザインを邪魔しないと皆の意見が一致した。遠目からはふさふさの尻尾の陰影に見えるが、近付くと名前だと分かる仕掛けだった。今日うちのクラスは私と新田くんともう一人が作業する予定だったけれど、その子は今日学校を休んだので二人で描くことになった。
「今日尻尾を仕上げるのは無理として、どうやって分担する?」
「俺、ローマ字でも綺麗に書ける自信ないな……」
「じゃ、今日は二人でベタ塗りしよっか。どうせ下地が乾かないと字を書けないし」
 私達は白と黒のアクリル絵の具を混ぜて灰色を作り、塗りの作業に入った。私が外枠を囲み、新田くんが中を大きめの刷毛で塗りつぶしていく。尻尾同士が重なって影になるところは、もう一段暗いグレーで塗る。途中、肩が触れ合ったり、妙に近くから彼の息遣いや、しっぽが左右に揺れる音が聞こえてきたりして、私の心臓は躍った。三組の三人がすぐ隣でわいわい描いていなかったら、ラブコメ漫画のワンシーンだ。
 私は自分が汗臭くないか気になった。一応制汗剤は吹きかけてきたけど、中身がなくなりかけのを騙し騙し使っていたから、効果なんてないも同じだった。今から部室に戻って、ダメ元で制汗剤を追加してこようか考えていると、廊下の向こうから騒がしい声が近付いてきた。ダンスチームが割り当てられた練習時間を終えて戻ってきたところらしかった。先頭を切ってやってきたのは陣内くんだった。学校指定のハーフパンツに、私物っぽいTシャツの袖をまくった姿で、Tシャツにはところどころ汗が滲んでいた。
「進んでんじゃん」
 そういうと彼は教室の中に入ってきて、自分のクラスの赤い看板の前でクラスメイトとしばらく話してから、私のところにやってきた。「白ベースもかっこいい」なんて言いながら。
「ホント? 良かった」
「ダンス練習も見に来てよ」
 陣内くんは首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら言った。練習がハードだったせいなのか、彼のしっぽは下に垂れたままだ。不思議なことに、陣内くんからは汗の臭いも制汗剤の匂いもしなかった。
「あっ、そうだね。立て看担当だから、見に行ったらいけないかと思ってた」
「ネタバレが嫌とかならアレだけど、いいんじゃね? それに中島さんは一応発案者なんだし」
「ネタバレ大歓迎。練習今度いつ? 見に行くよ」私はしっぽをぴょこんと立てて、左右に揺らしてみせた。

 結局、今日は尻尾のベタ塗りが終わったところでタイムアップになった。私が筆や刷毛、筆洗バケツを洗って教室に戻ってくると、立て看を教室の後ろに立て掛け終わった新田くんがいった。
「中島さん、暑いし喉乾かねえ? 教室の鍵を返したら、ローソンでアイス食べよ」
 学校のすぐ横にあるローソンは、運動部の子達や、体育祭や文化祭で居残りする生徒のたまり場だった。新田くんがレジに持ってきたアイスは私と同じガリガリ君ソーダ味で、やっぱこれだよねと二人で笑った。店の前は幹線道路になっていて、私たちは車道脇の植え込みの縁に座ってアイスを食べた。ガリガリ君だけでは足りなかったらしく、アメリカンドッグにケチャップを塗りながら新田くんは言った。
「消去法で立て看選んだんだけど、俺、立て看やってよかったかも」
「おーそうなんだ。楽しい?」
「うん。放課後にみんなでワイワイするの悪くないなって」
「そっか。それはなにより」
 西の空は赤く染まっていたけれど雲が多くて、空気はじとじとしていた。辺りはアスファルトが濡れたような匂いがしていて、それとガソリンの匂いが混じって、あまり快いものではなかった。天気予報をちゃんと見ていなかったけれど、明日は雨なんだろうか。
 アイスの棒をくわえて、残ったわずかな甘味を吸いながら、私は新田くんのアメリカンドッグも串だけになっていることを横目で確認した。帰ろっかと切り出すのはいつが正解なんだろう。私は新田くんのしっぽを見ないようにしていた。そこに私への感情が溢れ出ていたら、どうしたらいいか分からなかったからだ。
「陣内とは仲いいの?」
 新田くんが出し抜けに言った。
「体育祭準備で初めて喋ったから、仲いいって言えるほど陣内くんのこと知らないよ。派手だけどいい人だよね」
 と私が言うと、新田くんは、陣内くんとは中学が同じだったのだと言った。同じクラスでも同じ部活でもない陣内くんのことを、なぜ新田くんが知っているのかと思ったが、それで納得した。私が「帰ろっか」と言おうとした時、新田くんの喉がごくりと鳴った。
「あーのさ、良かったら俺たち付き合わない?」

◇◇◇

「なぁにそれ、自慢?」
「そんなつもりで話したんじゃないもん」
「まーっ、可愛くないわね! 女子高生がリハビリの間ずっとため息ついてたら、大人としては『何があったの』って聞かなきゃいけないでしょう? 女子の悩みは堂々巡りと相場は決まってるから、本来ならあたしはいちいち相手しないのよ! で、なんて返事したのよ」
「とりあえず体育祭終わるまで待ってって」
 尻尾をひゅんと一回転させた後、イツキさんはにやりと悪い笑顔になった。
「妥当なとこね。新田くん、学校の成績いいんだっけ? スペック的にすぐ切るのももったいないし、一緒にクラス委員やってるから気まずくなりたくないしね」
「言い方ぁ」
 イツキさんの図星の突き方に私は笑ってしまった。陣内くんのことはなんとなく言い出せなかった。「まだ始まってもいないレベルの相手に気兼ねして、みりちゃんにちゃんと向き合おうとしてきた方を焦らすわけ!?」とかなんとか言われそうだと思ったからだ。
「ねえイツキさん、リハビリって必要?」
「いきなり話が変わるわね。……みりちゃんはリハビリしたくないの?」
「わかんないけど……」
 新田くんには、しっぽがあまり動かないクールな自分を期待されていように感じるということを打ち明けると、イツキさんは顎に手を当てて黙ってしまった。
「新田くんが本当はどう思ってるのか分からないけど……みりちゃん自身はどうしたいの、リハビリ」
「わかんない。別に、補助具で足りるっちゃ足りるし。それに最近、やってても成果を感じられないし」
「うーん」
「もし補助具外せるようになっても、宇宙飛行士になんてなれないでしょ?」
「なに、宇宙飛行士になりたかったの」
「そういう訳じゃないけど……ごめん、新田くんのことと同じで堂々巡り。もうちょっと整理できたら話すね」
 何か言いかけるイツキさんを制するようにして畳みかけ、私は更衣室に入った。そもそも、補助具を外せるようになるなんて非現実的だ。でも、もし補助具を外せても、生まれてからずっとしっぽを動かせてきた人と同じにはなれない。しっぽが動かせなかったことによって作り上げられた部分を私から切り離すことはできないし、切り離したら自分じゃなくなってしまう。
 私はどういう風になりたいんだろう。それで、誰にそれをみてもらいたいんだろう。もし彼の告白がもっと早かったら、私はYESって言えただろうか。落としどころが見えていないモヤモヤを、イツキさんにぶつけたことを私は後悔していた。

 二日後、私は陣内くんに教えてもらって、学校近くの公園の芝生広場に来ていた。校内の練習だけでは済まないので、多くのチームが夕方や早朝に集まって、学校黙認の追加練習をしていた。陣内くんによると、さっきまで別のチームが同じ広場にいたし、子供遊具の前では今も別の一組が練習しているらしい。公園は夕闇に包まれはじめていて、浅紫色の空に時折コウモリの影が小さく横切っていった。今日は初めて衣装を着けて踊るというので、私はリーダーに頼まれて撮影をすることになった。
「結局仕事頼むことになってごめん」
 陣内くんは皆の荷物が置いてある辺りに立っていた私の所にさっとやってきて言った。
「全然。衣装着て踊るの見られるのラッキーだし。暗くなる前に撮っちゃおう」
 音楽が始まり、うずくまっていたメンバーが前の方から順に立ち上がり、体をくねらせた。メンバーは白いサテン生地で作られたやや袖の長い上着に、赤いパンツ姿だった。赤いパンツには細長いサテンとチュール生地を緩く縫い付けてあり、動くとそれがたわんだり揺れたりして、袴のように見える仕組みになっていた。袖の先に付けられたリボンは体の動きを追いかけてひらひらと揺れ、それが残像を表すしっぽのジグザグした動きとマッチして、ぞくっとする美しさがあった。
 陣内くんは群舞の中で常に中心にいて、リーダーでないのが不思議なくらいだった。あるいは練習を重ねていくうちに、実質リーダーということになったのかもしれない。陣内くんの目と私の目はよく合った。陣内くんは私を見ている訳ではなくて、当日の教職員席を想定してアピールしているのだとすぐに気付いたが、私は陣内くんの豹の目に射られて、息をするのを忘れた。動画撮影のためにスマホを掲げ続けてはいたけれど、彼等をうまく収めようという意識はきれいさっぱり飛んでしまっていた。

 綺麗にシンクロしているとは言い難かったものの、皆のしっぽは音楽に合わせて機敏に動いた。私は、このダンスは自分には踊れなかったと認めるほかなかった。その大きな諦めの真ん中で陣内くんは堂々と舞っていて、彼一人が光っているようだった。私のしっぽは自然と持ち上がり、憧れと畏怖で一本一本の毛が逆立った。
 最後は全員が合わせた手を高く掲げながら天を仰ぎ、月に祈りを捧げたところで音楽が終わった。
「みんなすごい……感動した!」
 お茶などを飲みにこちらに戻ってきたメンバー全体に、私は声をかけた。私の言葉を聞いて、前列の子達は照れ臭そうにしている。
「でもまだまだ合ってないところがあるんだよね」
「あのステップが難しくて」
「わかるー。私、それで次のフォーメーション移動が遅れちゃう」
 などと、ダンスの反省点を口々に話し合っている。肝心の動画は時折画面の半分以上が地面になったり、ところどころブレたりしていた。

 リベンジで動画を撮り直したら先に帰るつもりだったのに、結局お互いの顔が分からなくなる暗さになるまでダンス部の練習に付き合ってしまった。陣内くんとは帰る方向が一緒だったので、駅までの道を並んで歩いた。
「結局二回目の撮影も、暗くなりすぎてうまく撮れなくてごめんね。ついダンスに見とれちゃって」
「袖の揺れ方がどんな風に映えるか知りたかったから、とりあえずはあれでいいよ。本番はもう来週だから、袖を長くしたいってなっても間に合わないしね」
「そう言ってくれるとホッとする」
「俺、これまでストリートダンスしかしてこなかったんだけど、YouTubeみたり雅楽とか神楽について調べたりしだしたら面白くてさ。今からでも、女子を巫女のような髪型にしたいとか、地面に引きずる袴にしたかったなとか思い始めちゃってやばい」
 そう陣内くんは興奮気味に話した。心からわくわくしている証拠に、風を切る音が背後から聞こえてくるほど、彼のしっぽは揺れていた。
「すごい。めっちゃ勉強してる」
「知らないことを知ったり、出来ないことが出来るようになったりするの楽しいよね。中島さんもそのクチじゃない?」
「陣内君ほど前向きじゃない気がするな」
「俺も最初からこうじゃなかったよ。俺、小さい頃は喘息でめちゃくちゃ体弱かったんだよ。それで水泳とか運動とか親に色々させられて、変わったんだから」
「そうなんだ」
「見えないっしょ」
 陣内くんはふっと柔らかく笑った。それは普段のカラッとした笑いとは違っていた。私は、私のしっぽも実はね、と言いたくなるのをおさえて、
「全然見えない。なんか勇気もらったわ」
 と返した。
 私がしっかり者の仮面を被ってきたのは、ポジティブな動機じゃなくて、学校でうまくやっていくにはそれしか道がないと思ったからだ。でも、それで何かが変わったのなら、変わったことを不自然なことだとか、嘘だとか思わなくていいのかもしれない。私の受け取り方が変わっても、相変わらずしっぽは動かないし、どうしても向かない職業もあるだろうし、生きにくさは変わらないかもしれないけれど。

 体育祭本番で、一年三組・四組チームは三位に食い込んだ。例年ダンスは三年生が圧倒的に有利で、今年も一、二、四、五位は三年生チームなのに、一年生が食い込んだのは快挙だということだった。立て看の方はというと、これまで二クラス合同で描いた例がないということで正式な順位はつかなかった。しかし急遽設けられた特別賞に、二年生のあるクラスと並んで入ることができた。発案者として、チームとして、完璧な成績だったといっていいと思う。
 閉会式が終わり、がらんとしたグラウンドの隅の花壇に、私は新田くんを誘い出した。この後ファミレスなどに打ち上げに行くクラスもあり、学校全体がなんとなく浮足立っている中、花壇付近には校舎の影が落ちて薄暗く、しんとしていた。
「私、新田くんとはこれからもいいクラス委員同士でいたい」
 私の声は緊張で掠れていた。新田くんの顔をまともに見ることができずに、ずっと俯いていたが、影だけしか見えていなかったしっぽが、段々視界に垂れ下がってくるのを見て、私がこの人のしっぽをこうしたのだと思い、胸が痛んだ。
「うん、わかった。ごめんね」
「あやまることじゃないよ。こっちこそ、応じられなくてごめん」
「明日から普通にするから、ひとこと言わせて。俺、一見冷静そうなのに、実は小動物っぽかったり、些細なことに慌てたりしてる中島さんが好きだったよ」
「うん……」
「だから、クラス委員じゃないところでも、そういう中島さんを見ていたかったんだけどね。あと半年、クラス委員ではもうちょっと俺に頼ってよ」
 私は新田くんの顔を見た。彼の口元は震え、目は潤んでいた。
 どうやら私は新田くんの瞳をひどく誤解していたようだった。さっきの言葉を撤回して、新田くんをもう一度好きになることが出来るなら、どれだけ良かっただろう。振る方が泣くのは反則だと分かっていたけれど、私の目からは涙がこぼれていた。

◇◇◇

「みりちゃん頑張ったんだねえー」
「や、頑張ってないし。傷付けただけだし」
 翌日、まだ美晴にもちゃんとは話していない新田くんとの顛末を、私はイツキさんに報告していた。イツキさんは新田くんにしとかなくていいの、今からでも撤回して付き合えばいいのにもったいないとぶつぶつ言っていたが、私はイツキさんの独り言として処理する。
「で、みりちゃんは陣内くんに行くわけね」
「もうちょっと歯に衣着せてよ」
「陣内くん、すごい手強そうだけど大丈夫? みりちゃん可愛いけど、そういう男子って、アマゾネスっていうか、もっと孔雀みたいなのを相手にしそうじゃん。同時に地味メガネちゃんも何人か囲ってたりして。あっ、どうでもいいけど孔雀って派手なのオスだけだっけ?」
「陣内くんに失礼だし人の恋愛で楽しみすぎ」
 なんだかつやつやしているイツキさんを見て、私は大笑いした。笑わせたのは自分なのに、イツキさんは「ほらーちゃんとリハビリして」なんて言っている。
「ね、みりちゃん。あたし、今はみりちゃんのトレーナーだからしっぽが動くように働きかけているけど、本当は、みりちゃんはみりちゃんのままでいいって思ってるんだからね」
「……うん、知ってるよ」

 とりあえず私はもうしばらくの間リハビリを続けようと思う。イツキさんとこういうバカ話をしたいからもあるけど、もっと別の理由で。
 陣内くんとは取り敢えずメッセージアプリの連絡先を交換し、彼が廊下を通り過ぎるときは時々手を振るようになった。彼が出るダンスの大会にも、今度応援に行くつもり。

〈了〉

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。