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雑記 20220815

 お昼の献立に困ったときの最終手段として、ゆかりチャーハンにすることが多い。これは、東京にいた頃足繁く通った、新宿ロフトプラスワンという変わったライブハウスのチャーハンをまねたものだ。もう元の味など分からないけれど、最初に食べたとき、チャーハンなのに梅味でもいいんだ、とびっくりした憶えがあった。ロフトプラスワンのなんでもありな感じとも合っていた。そもそも、それを頼んだのは一品でも腹くちくなるものをという貧乏性からだったのだけれど、それ以来ロフトプラスワンに行くときは必ずそのチャーハンを頼んだ。

 今日はツナ、ネギ、マッシュルームと卵入りである。最後にゆかりをふりかけて完成させる。この記事を書くにあたって再現レシピなどないかと調べてみたら、本家はゆかりチャーハンではなく梅チャーハンで、本家のチャーハンはもっと茶色っぽかったし、おそらくミックスベジタブルとえびが入っていそう。おかしいなあ、私の記憶には、ネギとか、爪の先ほどの細かさのかまぼことか、粉みたいな卵とか、具とは思えないものしか入っていなかった記憶があるのだけれど、意外と具があるみたいだ。そしてゆかりも入っていなさそう。ゆかりは気軽に梅味を出すために自分でアレンジしたのが定着したのかなあ。

 お盆なので姪が家に来ることがあったのだが、大人でも苦手な人は乗れないような絶叫マシンに二つも乗った、しかも楽しかったと何度もうちの子供らに自慢していた。
 何度も言うのでそのうち喧嘩になりそうで嫌だから、ほどほどのところで繰り返しの自慢をやんわりたしなめた。うちの子供らも姪が行ったのと同じ遊園地にこの夏行っているのだが、姪一家はコロナを気にしたのと、一番下の子がまだ一歳なのでプールには入っていない。うちの子供らが、姪に対抗して「代わりに○○ちゃんの入ってないプールに行ったもん」と言うかと思ったけれどそういう主張はなかった。なかったのは平和主義的でいいことなのだけれど、こちらは言われっぱなしとはなんだ、みたいな気持ちに少しなりもした。
 また姪が帰ってから、うちも絶叫マシンをもっと体験させるべきだったんだろうか、でも、ただ園内を空中散歩するだけの乗り物でも楽しめている子供らの楽しさを否定してしまうのもおかしいし、子供向けコースターでも怖がるのに、無理に乗せて「これで子供の可能性を広げた!」と自負するのも違うしと悶々とした。

 後日、妹と話す機会があり、たまたまその話を妹からしはじめた。妹は絶叫マシンが好きなので、姪と二人で立て続けにコースターに乗ったのだけれど、二つ乗ったところで「休憩したい」と言ったそうだ。それで妹は少し反省したらしい。姪と妹とで見解の違いが生じたことに、というか、姪が大人の言い分と対立するようなレベルの見解を言えるようになったことに驚いた。

 姪がその二つのコースターを「面白かった、全然平気だった」と自慢したのは誇張表現、もしくは嘘だったんだろうか。

 自分はあの怖いコースターも乗れたという自信は本当だったんだと思う。だから乗っている間は怖いが先行していても、振り返ったときは楽しかったの方が強く出たんじゃないかと思う。
 だから、「この子は本当はいっぱいいっぱいだったのに、全然余裕だったと嘘をついている子」と思うのは的外れだし、うちの子供がその絶叫マシンに乗れなくても別にいい。
 よその子がどうかなんて、うちの子供にはあまり関係がないと頭では分かっているのに、育児において、周りと同じレベルのことはしておきたいという気持ちになりがちである。横並びなんてクソ喰らえと思っている私でも、である。キャッチアップしたいし、できたら周りより少し優れていたいし、せめてこれはやらせておくべきか? いや、うちは代わりにこんなこともさせている、と焦ったり優越感に浸ったりしてしまう。姪に対してはよその家の子より応援の気持ちが強いはずなのに、対抗心も強く持ってしまいがちなのは、似た血が流れる子でもこれだけできている、うちの子だって経験させられたはず、という感情が出がちだからだろう。

 人はいつから、その時感じたことを低く見積もって、自分にとって強烈なことをよく憶えて人に話すようになるんだろう。先日の「死にたくなったら電話して」もそうだった。だから主人公の関心が向かないことは捨て置かれ、描写もされない。読者からはとても歪んだ、説得力のない空間に見えるのだけれど、あの主人公が生きているのはそういう世界なのだ、多分。そのことは私にはわかるものの、それでもなおもうちょい上手く書けた話だと思うし、書いてほしかったと思うけど。

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