失敗が続くなら、それはきっと自意識過剰であるサイン

ちょっと気づいたことを。

出来てたことが出来なくなった

最近、陶芸教室で、電動ろくろの土ゴロシ(芯出し)作業が上手くいかないことが続いて、かなり焦っていた。

最初に丁寧に教えてもらった時には見よう見まねでそれっぽくはなっていたのに、数週間やらない間に、まるでやり方を忘れてしまっていたのだった。

かつて出来たことができない焦り、というのは強烈だ。今更、人にも聞けない…という謎の自意識も出てくるぶんタチが悪い。

上手くいかない時、まず「自分」に責を求める癖

「数週間やらないうちに、自分の腕力が落ちたのではないか?」「シンプルに、土を制御する筋力が落ちたのではないか?」
これが私がまず最初に疑った要因だった。完全に、自責思考、自意識過剰である。

日頃から「腕力ないなぁ」「ヒョロヒョロだなぁ」と体力をコンプレックスに思うことが多くて、何かあるとまずそれが頭に浮かぶようになっているらしい。

そして一度「腕力不足だ」と思い込んだが最後、ひたすら「力をかけ続ける」という選択をとり続けてしまう。まだ足りない、まだ力が足りない、と。

どんどんヘトヘトになる一方、強い力を押し付けられた土はまとまるどころか、ウネウネと暴れまくる一方。

そしてまだ力が…とさらに押し込んで、悪化させる負のループ。

結論として、足りないのは力ではなく力学の理解だった。ろくろは高速で回転しているので、土の逃げ道を軽く導いてあげるだけであとは勝手にまとまっていく。動くのは土自体のほうで、人間がするのは動くキッカケを与えてあげることでしかない。
土に手で触れる面積は最低限(点レベル)でいい。
むしろ、手の全体で触れると摩擦も増すし、力点も分散して変化が遅くなる。

もっと力がいると思い込み、手のひら全面を使って押し込もうとした時点で既に決定的に選択を誤っていた。

自責思考は自意識過剰から生まれる

私が何かと問題の責任を自分側に求めるのは、コントロールできるのは自分のみ、という感覚があるためと、責任を他者に求めるよりは自分を疑う方が、結果的にコミュニケーションが円滑に進むことが多い気がしているためだ。

と、ずっと思っていたのだが。

ろくろの力学問題を、自分の身体的コンプレックスに求めようとしたハチャメチャさを振り返る時、それはもっとシンプルに、自意識過剰、みたいな話なんじゃないか?と思った。

何かにつけ、「自分のこと」が気になる。自分の影響に目がいく。天気が悪いのも、運が悪いのも、自分のせいだと自惚れたくなる傲慢さが、私にはある。
ちっぽけな人間1人が、天体や惑星や宇宙を平気で動かすと信じているイタさがあるのだ。

(余談だが、前から「私は雨女」と誰かが言うのを聞くと、何とも言えない苦々しい気分になる。理由はずっとよくわからなかったが、多分自意識過剰すぎるという意味において、無意識に共感性羞恥みたいなものを覚えていたのかもしれない)


なんかやればやるほど悪化する、という局面において、今後、もしかしてそれ、自意識過剰じゃない…?現実見て?と一旦心の中で優しく唱えることにしようと思う。