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summer

中学校の給食の時間に決まって、スピーカーから流れていた、久石譲のsummer。
当時は、タイトルも作者もわからず、どこかの実験ラットのように、この曲が流れると給食だ、と、反射で胸が躍る、飯前ソングだった。

放送委員の生徒の、給食の時間です。という棒読みのアナウンスとともに、延々とリピートするsummer。

バイオリンの跳ねるようなピッキング、淡々と繰り返すコード進行、どこか不思議な迷宮に連れ去られるような、行き止まりのない行進曲…

そこに重ね合わさるのは、午前の授業をこなしてダルい脳みそと、緊張からふっと放たれ、美味しそうな匂いの満たされる教室をソワソワする生徒たちの、心なしかワントーン明るい表情。

この体験が、妙にエモーショナルで、心に残っている。

ずっと後になって、この曲がsummerという、拍子抜けするくらいシンプルなタイトルだと知った時はまた、不思議な気持ちになった。
私にとってはlunch(ランチ)とかの方がしっくり来た。

作曲家が久石譲と知った時は、この世のすごい曲は全て久石譲が作ってるんじゃないか?と少し怖くなった。

そして、なぜか北野武の映画の曲だということもミスマッチな感じがした。久石譲といえばジブリで、ジブリといえば安心安全、全年齢向け映画の金字塔という印象に対し、北野武という人の放つ印象はむしろ真逆、バイオレンス、大人向け、難解というイメージだった。

社会人になって、ふとそんなsummerの映画、菊次郎の夏が気になり、TSUTAYAで借りてきて、実家のテレビで1人、昼間に観た。

あの美しく壮大なsummerが流れるのだから、さぞ壮大でドラマチックな重厚ドラマなのだろうと思ってみ始めたが、見たことのあるおじさんが延々、その辺の田舎で生活するドキュメンタリーという感じで、いつ山場が来るんだろうと思っているうちに終わってしまった。

なんか、残念…ただ、若き日の給食ソングとして心の中にしまっておけばよかったかなと思いつつ、DVDもそのままにして出かけてしまったのだが、その夜家に帰ると、母親が私の置いていった菊次郎の夏を1人で見ていて、しかもなんかむっちゃ見たことないくらい泣いていた。

私の母は、エンタメに疎い人で、1人で映画を見たり、自発的に遊びに出かけたりしない人なので、私の置いていったDVDに興味を持って1人で再生していたことにまず衝撃を受けた。

さらには号泣というべきほどにグシャグシャに泣いていたのでさらに驚いて、むしろ面白いほどだった。

あれほど淡々と何も起こらない上演時間のどこでそんなにグシャグシャになってしまうきっかけがあったのか、不思議で質問したのを覚えている。

母は、不器用な菊次郎が、愛やつながりを求めて不器用に頑張る姿がたまらないのだと言っていた。そこまで説明されてもなお、私にはピンとこない感覚ではあったが、ああ、こういう感性の女(ひと)だから、あのクソ不器用な父親と付き合ってるんだろうな、と妙に感心するような気持ちで受け止めたのだった。


最近、急にめちゃくちゃ寒くて、夏が恋しくてたまらない。

永遠の飯前ソングであり、幼き日の夏を思い出すsummerは、私にとってはいつまでも「中学校の夏」であり続けるだろう。