自由じゃないなら愛じゃない

カウンセラーさんと喋った。会社の仕組みで、カウンセラーさんと話せる。凄すぎて、バグなんじゃないか?と思う。いっぱい話せると思うと、甘えてしまいそうだから、もう話さない方がいいだろうと毎回思うが、話せたことで本当に良かったと毎回思うから、少しづつ、お話しするのを継続している。というか、甘えってなんでしょうね。いつも分からなくなるけれど、おそらく自分で思っているより遥かに多くのことが、甘えではなく「ヘルプ」だし、「相談」だし「提案」だ。実際、へりくだることで前に進む現実なんて、ほとんどない。図々しく生きていく方が、戦々恐々痩せ細っていくより随分マシだ。最近はそういう割り切りもできるようになってきた。しょうもない見栄や自意識で餓死、なんて御免だ。まだまだやりたいことがいくらだってある。簡単に死んでたまるか。


自由じゃないなら愛じゃない証

ここ最近、実家に寄りつきたくない気持ちがいっそう増している。なんでかなっていうのを考えてみたら、サブリミナルで思想の自由を奪われるからだと気づく。
親は、私の選んだ道を、選択を、暮らし方を、「自立していない」と非難する。堅実な職業、お金の儲かる安定した仕事、財力のあるパートナーを捕まえる、どれもがアホみたいに見当違いだ。私の意思を踏みにじり、無かったことにしようと必死な口ぶりの全てが、私の自尊心を踏みにじり、冒涜し、ボコボコにする。

親のことなんて無視すればいい、勝手に悲しませておけばいい、はずなのに、親が悲しむなんて心が痛くてできない。そういう子供ゆえの無条件の情が、私の中にもしっかりとある。消すことができない。そのことが、苦しくて、苦しくて、話しながらつい泣いてしまう。
自分の人生だ、構うもんか、勝手にする、好きにする。でも、親はその決断を認めない、応援しない。
それでも自分の望む道へ、足を踏み出そうとする。足がすくむ。親が悲しむ顔がちらつく。足が震え、涙が溢れる。それでも、後退りしちゃいけない。
親の意思を、自分の意思より大事にしてはいけない。これは私の人生だから。ここで負けたら、私の意思を聞く人間はこの世に一人もいなくなる。その時、本当の意味で「私」は死ぬのだと思う。

ながされそうな時、負けそうな時、自分に質問する。「今、自由?」って。
自由じゃないなら、どこかに必ず嘘がある。欺瞞がある。
本当の愛は、人を自由な気持ちにする。人に、自信を与える。
嘘の愛は、人を不自由な気持ちにする。人に、自信をなくさせる。
相手の意思より先立つ願いはないと言い切れるとき、その心だけが愛と呼びうる。
親の望むレールを子供に歩ませようとする親の言葉は、本人たちも無自覚だろうが、本質的には愛ではない。エゴだ。

とはいえ、親や、その他人間について判断しようとすると、どうしても心が痛んで、難しい。そういう時は、自分に質問する。「今、自由?」って。

自由じゃないなら、愛じゃない。愛じゃないなら、その手は握れない。

私は、死んだって構わないのだ、自由のためなら。
それが分からない人間を、「私を愛している人間」とは認めない。

自由を理解しない人を、私の心の中に招待することはできない。例え親であっても。そのことを私は、百の涙を流したって貫く。今日、カウンセラーさんと話ながら、改めて、そう誓った。