抽象日記 怒りと愛

数ヶ月前、唐突に、とても正気とは思えない暴言メッセージが親から届いた。

私はふと、心の底から彼らを嫌いになってしまい、絶縁した。
はじめて親に対して、怒りと拒絶を「直接」示した。

こんなに可愛くて、ひたむきに生きているちっぽけな私がどうして、こんな暴言を脈絡なく受け続けなくてはいけないのか?一生こうなのか?

精神の病気なのだ、とか色々説明されたが、ふと「だから何だ?」と心底思った。私も最近頭が痛くてムカつくからお前たちを交互に殴ろうかな。

子供は親に「嫌いだ」と伝えてはいけない、とずっと思い込んでいたので、これまで苦しかった。
突然暴言を吐かれたことで、あまりにも心底嫌いになり、もはや伝えないほうが不親切だと思い、伝えてしまった。あっけないものだった。

自分だけのために怒った。

そしたら、人のために怒ることができるようになった。

自分を愛しいと思ったとき、
どうしても怒りを見過ごせなくなったように

だれかを大切にしたいと思ったとき、
どうしても、怒らなければいけない瞬間があらわれた。

私は、自分のために怒ったことで、その後、人のために怒るという選択肢をようやく手に入れた。


藤井風みたいに生きたいな、とずっと思っていた。

彼にあって私にない最大のものは「愛」だとずっと思っていた。
だけど最近、それは「怒るということ」だと気づいた。

深く何かを愛する人は、それゆえ、深く怒ることができる。
その怒りは、声を荒げるとか、一方的に非難するという単調なものではなく

愛することが高度であるように、
怒ることもまた、とても高度な形をしている。

愛なき怒りは、怒りではなく、たんなる幼稚な癇癪かもしれず
怒りなき愛は、愛ではなく、たんなる幼稚な自己陶酔かもしれない。

彼の曲と生き様にすべからく潜む、高度な怒りに、わたしはまだまだ学んでいきたい。私は、彼のようなミュージシャンになりたかったのではなくて、彼のようにしっかりと怒れる人になりたかったのかもしれない。