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職業になること, について

本日公開の映画「四月になれば彼女は」を見てきました。

見ていない人のために簡単に説明すると、
・恋愛をテーマに扱った日本映画
・いわゆる恋愛映画とはちょっと毛色が違う、恋愛自体を問い直すような話
・川村元気さんの小説が原作
・映画の主題歌は藤井風さんが担当
といった感じです。要約が雑すぎですが・・・。

私は藤井風さんのオタクのため、公開日に勇み足で見てきました。
好きなアーティストの曲が映画館の音響で聴けるなんて行かないわけにはいかないよね。

映画を観た感想や考察は、それはそれで存在するのですが、本日ここに記してみたいのは、「職業になること」について。

私が「恋愛マンガ」の編集を担当するような気軽さで、藤井風は「恋愛映画」の主題歌を制作したかもしれない という衝撃

唐突なことを言うようなのですが。私はつねづね、「(人間にとって)職業になること」というのは(当人と)どういった距離感の物事なのだろう?、と考えてしまいます。

得意なこと? 好きなこと? 譲れないこと? ・・・・・。

今現在、私はマンガの編集者をしています。
マンガ家、デザイナー、税理士、スポーツインストラクター、さまざまな職業がある世界で、マンガの編集者、という距離感を選び、いまも続けています。

それはどうしてかと、私目線の感覚で答えるならば、
「できること、したいこと、しなければならないこと、のバランスが最も私にとっていま自然な形で成立する選択肢だから」という感じになります。もっとエモーショナルな理由も、情けない理由も、当然あるんですが、せいいっぱい現実的な分析をしようと思った時には、この答えしかない。

私はマンガの編集者をする前は、WEBディレクターの仕事をしていて、その前には大学で現代アーテイストを目指して勉強していました。

その時々、なぜその選択をとったのか?と聞かれれば、その答えは
「できること、したいこと、しなければならないこと、のバランスが最も私にとって自然な形で成立する選択肢だから」
になったと思います。

できること、したいこと、しなければならないことが、日々を重ねる中で少しずつ変化していった。その結果、選択する身の置き方も、避けがたく変化していった。

けれども変わっていないのは、つねに選んでいるものは同じであるということ。
「できること、したいこと、しなければならないこと、のバランスが最も私にとって自然な形で成立する選択肢」であることは変わらないんだ。と、しばらくすると必ず気付かされる。

私はじつは、ミュージシャンという職業への憧れを小さい頃からほのかに・しかし強烈に、胸に抱えています。小さい頃から音楽は身近に常にあり、流行歌から、替え歌、クラシックにいたるまで、さまざまな音楽に親しみ、おそらく一番人生に影響を与えてきたものは音楽であると言い切れるほど、一番喜怒哀楽を最も委ねてきたメディアは音楽なのです。

当然、自分の心を強くゆさぶる音楽を職業に選びたいと思うことは多く、これまで何度も、どうしたら音楽を仕事にできるのかと考えつづけてきました。

私の憧れる藤井風さんは、どうしてミュージシャンになれたんだろう。そして、なぜ私はそうはなれないのだろう。

半分は、この問いへの答えを探しにいくような気持ちで、今回の映画を観にいきました。
なぜなら、事前のインタビューで、藤井風さんが「この映画を観てどうでしたか?主題歌を作るにあたってどう感じましたか」という質問に対し、こんなふうに答えていたからです。

(鑑賞後)まわりの大人はすごく泣いていて…。でも若造の自分には深すぎるっていうか…もっと恋愛や人生をいろいろ経験したときにすごく理解できる話なんだろうなと思って(※筆者意訳)

この、あまりにも素直すぎるコメントを聞いて、すこし笑ってしまいつつ、とても興味を掻き立てられました。

「正直、めちゃくちゃピンとくる内容では(自分にとっては)なかった」という前提がある中で、それでもその「主題歌」を制作しなければいけない人の胸中というのは、はたしてどんなものなんだろうか?気になりませんか?

もし私自身が彼の立場で、経験したことのあるわけではない/共感しきれるわけではない映画の主題歌を担当するとなったとき(こういう言い方もすごく雑だと思いながら…)、具体的にどんな手段と思考回路で、それを現実的に落とし込んでいくだろうか?

まったく、見当もつきませんでした。たぶん、絶望するだろうと思った。
「ごめんなさい、私には手に負え無さそうです」そう言って、絶対逃げると思いました。やるほうが不誠実だ、などと去り際に言い訳しながら。

でも、彼はやった。

この勇気の正体がしりたいと思っていたんです。私には、(仮に私がミュージシャンになれるとして)、そんな勇気を出す方法がわからないと思ったから。(取らぬ狸の皮算用ですね)

そして実際に今日映画を観て、いろんな言葉や経験を振り返ったときに、私なりに得た答えが、
藤井風にとって曲をつくることは、私にとってのマンガを編集することとおなじなのだ」という直感でした。


「勇気の問題」「才能の問題」の外側に、「職業」は存在しているのではないか

自分なりに納得のできる答えを見つけたきっかけは、問いそのものを
「理解しきれない映画の主題歌をつくる方法」ではなく、「理解しきれないマンガを編集する方法」というふうに、自分に近い状況で置き換えて考えてみたことでした。

日々の仕事の中で、経験したことも考えたこともないテーマを題材としたマンガを編集することはいくらでもあります。そういうことのほうが多いくらいかもしれない。
けれども、いちいちその度ごとに「できません。ごめんなさい」とは答えない。それは、べつに、やれる自負がものすごくあるからでもないし、私がすごく勇気がある人間だからでもない。

仕事なのだから当然やったほうがいいし、クオリティはさておき、なにかしら必ず形にすることはできるのだし、それを私に頼みたいと言ってくれる人がいる限りには、やってみたい。そういう温度感。

「マンガ」を「曲」に置き換えれば、藤井風さんが今回の映画の主題歌を制作したことも、まるで同じ感覚だったのではないか、と(勝手に)思いました。(実際にはぜんぜん違うかもしれませんが、私が当初知りたかった「勇気」の理由については説明がつきました)

※マンガの編集、というのもややイレギュラーな職業かもしれないので、これを読んでくださる方には、ご自身の職業に置き換えて考えていただければ、おそらく全く同じ温度感を味わわれるのではないかと思います。


私は、ショックでした。

音楽を仕事にするというのは、ものすごくロマンチックなイメージがあったからです。ふわっとアイデアが降ってきて、魔法のように音符が飛び出し曲が織りなされていく、という奇跡が、毎回起きているのだとバカみたいに妄想していました。

それは、わたしがやっているような仕事とはまるで違った、地味さのない、泥臭さのない、恥じらいも苦しみもないものなんじゃないかと思っていた。だからこそ、少しでも不安のある状態では「奇跡」なんか起こせるわけがない!と怯えていたのだと思います。

でも、仕事は、奇跡を前提にしていては回りません。
「奇跡が起きなかったね!じゃあ、今回は何もできなかったし、お金ももらえないってことで!」という感じで暮らせる社会は、少なくとも地球にはない。

奇跡というのは、たまにしかないから奇跡であって、
仕事は、毎日そこにあるものです。
この時点で、「仕事はすべからく奇跡ではない」のだと、とてもポジティブに言い切れる。

もちろん、そうやって当然のように回すことのできる職業が見つかる幸運自体を奇跡と呼んでもいいかもしれませんが、体感として、職業にするものを本人自身が「奇跡を起こす」という気概ではできるわけがない。ということが、今回の気づきの核でした。

「憧れは、理解から最も遠い感情だよ」ってスナフキンが言ってた気がする

まぁ、ここまでつらつら書いてみてなんですが、答えはずっと前からスナフキンが言ってた気がします。

(※…と思ったら、大元は、BLEACHに登場するセリフのようです。それが知れただけでも良かった…。)

「憧れとは、理解から最も遠い感情」ならば、「憧れながら同時に理解することはできない」さらには「理解した時にはもう憧れられない」とも言えるかもしれませんよね。

先に私が「仕事は、奇跡を起こすという感覚ではできない」と言ったのは、まさにこの感覚でした。

世の中の大事なことというのは、結局どこかですでに言われていることだったりするんですが、そこに至る過程はすごくユニークだなと思います。それ自体が、それぞれチャーミングな物語なのだと。

映画を観たという体験を通じて、こじらせた憧れに答えを見つけた今日の体験は、ヘンテコで、ちょっと面白いかな?と思ったので書いてみました。







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