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「土きもちいい」みたいなごくごく地味なことが、いかに人生において尊いか

土日に働いている陶芸教室で、私は疲れるどころか、いつも活力をもらっている。

土という素朴な物体に、くる日も来る日も向き合う地味さ。けれども一度としてまったく同じ日というのはなくて、今日は寒くて乾燥しているから土の渇きが早いだとか、釉薬を厚くかけすぎたから、窯ではりついてしまったとか、毎日の地味な、物体とのやりとり1つ1つに、心からふるえるように感動して、喜びをもらっている。

それだけではない。

実はこのためにやっているんじゃないかと思うのが、体験しに来るお客さんの素朴な反応を見られることだ。
来てくれる人の9割以上は「はじめて陶芸をする」という人たちで、渾身の一作をつくるぞ〜!と張り切っている人もいるし、パートナーに連れてこられて不安そうだったり退屈そうな顔の人もいたりする。
でもそれぞれが、いちどろくろが回りだすと、目つきが変わり、口数が減り、「土、つるつるして気持ちいい!」「ずっと触っていたい」みたいな、子供のようにとっても素朴な感想を漏らす。それは、イカツそうなお兄さんしかり、気まぐれそうな5歳児しかり、写真撮影に勤しむ長いつけ爪のギャルお姉さんしかり、だ。
みんなが、回る土の前では平等にこどもになり、目の前のことに集中し、おもしろいとか、不思議だとか、すごいとか、「いま」思ったことを嘘偽りなく素直に口にする。
そのマインドフルネスな光景が、もう、美しくて美しくて。神々しいほどなのだ。何気ない街角の一角の、ありふれた陶芸教室の景色かもしれないけど、私にはこの光景が何よりのご馳走だ。「今この瞬間は、みんなが嘘をついていない」なぜなら「今ここは、まったく嘘をつく必要のない場所だから」そう感じられることが、何よりもとびきりに嬉しい。

こどものころ、はじめてクレヨンを握った時、おもしれー!って思ったと思う。いろんな色があって、不思議な油性の匂いがして、硬いけれど、爪を立てると簡単に凹むような手触り。それから、紙にそれを書きつけて、意外とボソボソとして扱いにくいと感じたり、力の入れ方によってはなめらかに曲線が描けたり全く違う表情を見せて、そういう、物質を手で操り目で追いかけながら、一瞬一瞬の結果に「すげー!」「へんなの〜!」って思う。その心のときめきみたいなものが、昔から私は好きで、好きで、好きで好きで好きで仕方ない。

その感動みたいなものが好きすぎて、いつしか、感動を味わう人をサポートするような仕事をするようになった。別に「人」が好きなタイプじゃないし、人間付き合いには才がないけれど、ただ、だれかの心の中に立ち上る、イノセントな「すげーー!」っていう感動が、自分のものであっても他人のものであっても関係なく、ひたすら美しくて、愛しくて、大事にしたくなる性分が、うまく仕事にはまっただけだ。

大人になっていくにつれ、いやでも本心とは違う行動を選ばざるを得なかったり、TPOを考慮して建前のような発言を選ぶことも増える。本来それは、ただしいことで、それ自体が悪いわけではない。より多くの人が幸せになるために必要なことだと思うし、それはそれで美しいと思うからだ。

でも、やっぱりそれだけが続いていくと、本心を曝け出すっていうことが、よくわからなくなっていってしまうと思う。
昔は私も、陶芸ってなんで大人たちが好き好んでやるんだろう、すごく地味な感じだけどな、と思っていた子供だった。
陶芸は、大人が大人になる過程で奪われてしまった「目の前のものに反応する」という素朴な機能を取り戻させ、労ったり気遣ったりする必要のないただただ茶色い土が、大人の手つきを機敏に読み取り、それを反射して形を変えて見せる。いわば自分時自身の投影、反射のような土の振る舞いをみて、「ただいまここにある」自己存在の純粋さを感じさせてくれる。

どうあらなきゃいけない、ということではなく、こうやって押したら、こうやって歪む。という、とてもシンプルな力学を、小さな箱庭のようなサイズで演じてみせてくれる土という装置が、未来を心配したり過去を引きずったりと、とかく「今ここ」に目を向けられなくなった大人を強制的に今に引き戻し、そのことによって、癒す。

もしかしたら、子育てとかも似ていて、とにかく目の前で暴れるこの小さな命をなんとかせないかん、という究極の現在集中ーーマインドフルネス効果によって幸せがもたらされたりするのかもしれない?。
知らんけど。

まぁ、とにかく大人ってこういう地味な感動とか目の前のことへの集中力が本当になくなりがちだよな、と思ったので、そして、それを補うようにして無意識に陶芸へと吸い寄せられた己の魂が素直で可愛いな、と思って、ふと書き残しておく。