見出し画像

場所が持つ意味について

フリーコーヒーの旅をやっていると不思議なことがたくさん起こります。
それは僕のところに訪れる人とのあいだに、お互いが意識していないのに起こったりします。今回はその「見通しをつけないのに、現実がしっくりと展開していく」ことについて書いてみようと思います。

このdailylife bicycle coffeeの旅をはじめたころ、僕がコーヒーを出す場所は少しでも人が多くいるところ、それでいて誰かの迷惑にならないようなところを探していました。
それはコーヒーをひとりでも多くの人に飲んでもらいたいというような思いでもあったし、無一文からはじめているのにお返しを期待しないと言い聞かせているぶん、生きていくための自分のしようのない動きだったようにも思います。

しかし、いつの頃からから「だいじょうぶ。ちゃんと伝わっている。旅を続けるのに必要な分(食べ物やお金)は返ってくる」ということを信じられるようになりました。
そして僕はコーヒーを出す場所も、ぼくを訪ねてくださるようになった方々への対応も変わったような気がします。肩のちからを抜けるようになってから、よりしっくりと来るようになった感じです。このしっくりくるというのはうまく説明できないのですが「ちょうどよい、心地よい」感じです。

まずは、場所(が持つ意味)について。
いま僕は町の「スキ(隙)のあるところ」に自転車をとめてコーヒーをはじめます。それは商店街のちょっとした場所だったり、駅前のロータリーの一角だったり、公園の木の下だったりします。なんとなくそこだけスキマとして見えるんです。自分がそこにいても、あんまりまわりに影響が出ず、けれどしっかりと見つけてもらえるような、なんとなくその場所では人の心がフッとと緩むようなそんなところです。そういうところは目星をつけておくのではなくて、まずその町に着いたら商店街なら自転車を押しながら歩き、自転車をゆっくりと流すように走らせながら見ていきます。

そういう場所がスッと見つかるときもあります。なかなかしっくり来なくて、何ヵ所か見てみたときに「あ、ここだ」と思うこともあります。ぜーんぜんそういうスキが見つからなくて次の町に行くこともあります。これまでだと、札幌の大通り公園、仙台の夜の商店街、神戸の元町駅前、尾道の商店街はスッとその点が見つかって、やっぱりおもしろい出会いがたくさん生まれました。逆に東京や京都はスキがなかったです。なんとかギリギリ見つける感じでした。すんごいギッシリしていて自分が入り込む余地がないというかそんな感じです。
同じ密集地でも大阪ではアメ村の三角公園という人が行き交うジャンクションみたいなところでコーヒーをやったのですが、大阪ではあちこちにスキがしっかりと残っている感じがして居心地がよかったです。

住むところや、お店を出すところ、お弁当を食べるところや本を読むところ。
場所というのは不思議なもので、どこにいるかで全然気分が変わってくるような気がします。
今回のコーヒー旅をやるようになってから、自分がそのときどきでしっくりとくる空間を見つけてコーヒーを出すことができるけど、住むところを決めたりお店を出したりというのは、一度固めたらなかなか次とすぐには動き出せないことも多いだろうから大変だろうなと思ったりします。
けれど逆に考えると、そういう住む場所とかは、なかなかすぐに変えることはできないけれど、ごはんを食べる場所、散歩に出かける場所、人と会う場所とかは自分である程度融通がきくので、そうやって自分の気持ち良い場所で過ごすことで少し元気をおぎなえたり、いい考えが浮かんできたり、そんなことは思い当たるところがあるんじゃないでしょうか。

オーストラリア人が裸足でペタペタ歩いていたり、インド人のヒンドゥー教のお坊さんが髪を伸ばしたり、カナダやアメリカの人がベンチよりも芝生の上で過ごしたりランチを食べるのを好むように、なんとなく人って「常識だから」「人に見られる」という頭で考えるものをすこーしだけ脇によけて動いてみると、しっくりとくる場所や過ごし方が見えてくるんじゃないかなぁなんて思ったりします。

「ここだ!」という場所を見つけたら思い切って移住をしてそこでずっと暮らす人もいれば、なんとなく次に向かう時かな、というふうに引っ越しをする人がいたり、ぼくの出会うひとでもふた通りあるような気がします。

僕はどちらかというと(いや明らかか?)居場所を定期的に変えて、会う人が変わっていくほうがどんどん頭がクリアになったり、元気になったりする感じがするので(もしかしたらまだ、ここ!という場所が見つかっていないだけかもしれないけれど)、旅をしているときや日本にいても数日ごとに居場所を変えるほうがすごーっくしっくり来る感じがしています。

いまはあちこち世界を旅をしながら、旅先ではもちろん居場所が変わるし、日本にいるときも講演や学校授業で呼ばれた土地と兵庫県姫路市にある自宅(ばあちゃんが住んでた古民家)とを行ったり来たりしている感じです。

この住む場所のことで、いまぼくがとってもやりたいことは、この「自宅に帰る」という概念を無くしてしまうこと。そうすれば自分にまた新たな感覚や見方が生まれるだろうと思っているのでワクワクしています。

具体的にはクロネコヤマトが使っているでっかい配達車の中古を買って、それを家みたいに内装を作って動く家にすることです。そこには用途違いの自転車が2台積んであって、サーフボードが吊るしてあって、洋服も旅ができるアウトドアの服やグッズも入っていて、コーヒーの焙煎なんかもできて、お客さんを招くこともできます。その車で「今月は◯◯くんのいる長野に行って、空き地を使わせてもらって住んでみようかな」なんてモンゴルの遊牧民のような暮らしを日本でやりながら旅もしたいなと思っています。

「場所」のことについて書いてたら長くなってしまったので、「見通しをつけないのに、現実がしっかりと展開していく」ことでの場所以外の部分を次回書いてみようと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。まだまだ実験段階のこのブログですが、自分の活動報告と分けて書けるというところがなんとなく心地よいです。

画像1

画像2

画像3

ここから先は

0字
月に4回程度配信。お金を払うのも、タダで読むのも自由です。

自分が自分でいられること。

¥500 / 月 初月無料

旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…

自分の人生を実験台にして生きているので、いただいたお金はさらなる人生の実験に使わせていただきます!