見出し画像

旅は僕にとって生きること。

まさか幼馴染が死ぬなんて思ってなかった。それも大人になるまえに。
自分よりも頭がよくて、友だちがたくさんいて、ちょっと悔しいけど彼女もいて、憎たらしいところもあったけどみんなに愛されていたノブがあっけなく亡くなった。19だった。
彼が亡くなった日に親父からの電話でそのことを僕は知った。親同士の「お医者さんもきっと良くなるって言ってるから、昌徳くんを心配させたくないし、良くなってから伝えようと思ってね。」とのやりとりがかわされ、僕はなんにも知らないまま全てが終わってしまった。事故は亡くなる1週間前だったそうだ。

お葬式が終わった。そのあともしばらくは現実を受け容れることができなかった。いや自分では大丈夫だと思っていたのだ。けれども他の幼馴染にそう言われた。「まーくんはなんにも受け止められてないよ」

そのあと精神的に不安定になった。まわりのみんな、当たり前の日常に戻っていくというのに、僕だけ大学の講義中とか、家に帰ってから突然涙が出てきたりした。いつも見ている風景のトーンが暗くなり、心のどこかにモヤがかかっているような日々だった。

不謹慎かもしれないけれど、ノブが亡くなって、「僕よりこの社会に生きてる価値があるはずだったやつがこの世からいなくなってしまった」と心から思った。

いまならそれは違うと言える。けれどもそのころの僕はそう思ってた。僕が生きてきた学校をはじめとする社会にはいつも点数や評価があって、どの大学に受かった、部活で活躍しただとか、友だちの数が多いこととか、そんなことがその人の価値なんだと思っていたから。

自分の人生でいちばん大切だと思っていた親友が事故を起こして亡くなるまでの1週間、僕はなんにもできなかった。事故ったこと知らなかったから当然?確かにそうかもしれない。
けれど自分の大切な親友のために、ぼくは病院にかけつけて声をかけることも、神様に祈ることもなんにもできなかった。
けれど現実はどうだ。ノブが命と向き合い、そして旅だった1週間、僕は適当に大学の講義を受け、バイトが早く終わらないかと腕時計を見つめ、ぐうたら昼寝をしていたのだ。そのことは完全に僕をノックダウンした。

亡くなって半年ほど経ったとき、ノブが夢に出てきたことだけを思い出したんだ。内容もなにも覚えていない。けど前を向かなきゃという決意のようなものがまだ寝ぼけている心のなかから起き上がってくるように感じたことを覚えている。

後悔しない人生を送る。
いまを生きる。

これがノブが彼の命をもって僕に教えてくれたことだろうと心に決めて僕はそれからの人生を生きてきた。

バックパッカーをはじめたのはロンドンのファッションが世界一かっこいいと思っていたから。ポールスミスに憧れて、ファッション誌に出てくる古着をキレイに着こなすロンドンの若者たちを見てみたくて「いちばん安いロンドン行きのチケットをください」と旅行会社のお姉さんに言って旅に出た。20歳になったばかりのころだった。大学生でしかも工学部に通っていたのだけれど、心のどこかでファッション業界で働きたいという思いもあった。

夜中についたロンドンで、もう生きてけないと思った。東京にもロクにいったことがない僕は、空港から行き着いた、東京で言うなら渋谷みたいな繁華街オックスフォードサーカスでさっそく露頭に迷った。自分が行きたいゲストハウスも、地図の見方さえも分からない。勇気を振りしぼって地元の人に道を尋ねても、返ってくる単語のひとつさえ拾えない流暢な英語に「オー!センキュ―!」と答え、結局何もわからずまた大通りを彷徨った。ここで終わるのか・・・感じたこともない人生の終わりを勝手に感じそうになった。

最後の望みをかけて、もう自分のプライドもなんにも捨て去って、次にもし日本人が通りを歩いていたら泣いてすがろう、と歩いていた。そうして目の前にやってきたのは自分と同じぐらいの日本人の青年だった。
いちばんかっこわるい展開だ。ダサすぎる。けれども僕にあとはない。
「こんばんわぁ・・あのぉ日本人ですよね・・・?」とその青年を見上げたとき、その青年は口をあんぐりと開けて、まるでオバケでも見るような目で僕のことを見つめていた。

「に、にしかわくん!?なんでおるん!え!なんで!?」

僕が声をかけた青年は卒業以来一度も会ったことのなかった、まして連絡もやりとりしていない高校の同級生の田中くんだった。彼もたまたまバックパッカーとして1週間ほどまえからロンドンに来ていた。
彼はすぐさま僕を泊まっているホステルに連れて行ってくれた。今思えばここで人生だいぶ勘違いしてしまったのかもしれない。

とりあえずやってみたらなんとかなるだろうと。

そうして僕は長期休みになるたびにバックパッカーでヨーロッパを旅した。いつしか訪れたい場所に行くことよりも、現地で言葉が通じなくても現実をなんとか切り開いていくことや現地で友だちを作ることが楽しくて、旅を続けるようになってきていた。

3回目の旅では75リットルある駅のゴミ箱くらいあるサイズのバックパックを背負ってはヨーロッパの蚤の市をまわり古着を買い付け、日本のフリマで自分の店を出して売っていた。そうすればいまいち興味が持てず、けど卒業はしなきゃいけないと思ってる大学の勉強とやりたいことを両立できるし、憧れているファッション業界の仕事の真似事もできる。もしアパレルに就職するなら断然有利だろうくらいにも思っていた。そうして次の人生の事件が起こった。


大学3年の夏の旅でアムステルダムの蚤の市がすごいらしいと聞きつけ向かった。そこで泊まった市街地のユースホステルで僕は自分の人生が大きく変わるきっかけとなる日本人のおじさんたちに出会ったのだ。彼らはちょうど僕が夕食を食べようと食堂におりたときにテーブルでご飯を食べていた。日本語が聞こえたので声をかけてみようと思ったのだ。

「あの!何しにアムスに来られたんですか!?」

ほんと何気ない気持ちだった。おじさんなのにホテルじゃなくて安宿にいることが気になったし、まあグループで観光かなぁくらいに思っていたらおじさんの答えは僕のはるか斜め上をいっていた。

「仲間と来ていてね、明日からドイツに向けて【自転車】で旅をはじめるんだよ。」

なんだそれは!自転車で国境が越えられる!?しかも歳を聞いたら今年70歳なんだとおじさんは言う。完全に負けたと思った。そのあとの僕なんてきっと夏の終わりのセミのようにうなだれた話し方だったに違いない。

おじさんはこうも言った。
「自転車旅はね、点と点とを繋いでくれる線の旅なんだ。行き先に目的があるんじゃなくて、その途中にこそ旅があるんだよ。」
なんだそれは。どういうことだ。鳥肌がたった。頭で考えるより先に、心が震えた。

そうして、僕は自転車旅をはじめることにしたのだ。
彼らには見えていて、けど自分はまだ知らない世界を見つめたくて。


「25歳まで自分のために旅をして人生経験を積みたい」
「自分が何かにチャレンジすることで誰かを勇気づけたい」

そう親にもまわりにも言い放ち、大学卒業後自転車で日本を旅し、世界に出た。親は「自分の人生だからそれでいい。これからは自分の責任で生きていきなさい。」と言った。
大学の仲間のほぼ全員に「お前は変わっている」と言われ、就職担当の教授には「大学の恥だ」と言われた。

7ヶ月かけて走った自転車日本一周はおもしろいばかりだった。少しオトナに説教もされたけれど、「日本一周」と書いて旅すると、たくさん声をかけてもらい、食べものをもらい、おこづかいをもらい、家に泊めてもらえ、そして友だちができた。なんだか旅人になったような気がした。けれど旅の人生の本番は世界に出るようになってからはじまった。

日本一周を終えた僕は、まず大阪から中国に渡った。
25歳までにユーラシア大陸を自転車で横断するという目標を持って。

あの中国に到着して自転車で走り始めたときの絶望感は忘れられない。
言葉が通じなく、だから宿にも泊めてもらえず、不安で心がいっぱいになってしまい、もう生きていけないんじゃないか、みんな悪い人なんじゃないかと、半分泣きそうになりながら走った。なんでこんなことをはじめてしまったのかって心から後悔した。

けれども僕が出会う世界は、ひとは優しかった。
僕を叫びとめたおじさんは僕にスイカをくれた。彼が叫んだのは、人と関わるのがこわかった僕があまりにスピードを出していたからだった。それをメモ帳に漢字を書いてやりとりした。言葉は通じないのに、心があたたかくなった。知らない世界だけれど、そこで誰かと出会うことが、いつしか恐怖から楽しみに変わっていった。

ネパールでの山間部の学校を訪ねたときには、ほぼ自給自足の村で一生懸命に勉強する女の子に心を打たれた。What is your dream?と聞いた僕に彼女はこう答えた。

I want to be a doctor.(わたしはお医者さんになりたい)

聞けば彼女の村には病院がない、医者がいない、だから人が病気になると亡くなっていってしまう。彼女は自分が医者になって、人の命を救いたいと僕の目を見つめながら教えてくれた。
そんな彼女のノートは消しゴムを買うお金がないから、間違えたところを指でこすって消して真っ黒になっていた。
30人いるというクラスには5人しか来ていなかった。学校に来ない子どもたちは、家や市場にいた。

家ですっかりお母さんのように赤ちゃんをあやし家事をこなす女の子、街を行き交う人たちにむけてしっかりした笑顔と声で、りんごを売ってお金を得ている子どもたち。それにあの学校で、貧しくとも村人のために医者になりたいと勉強していた女の子。そこには「自分が持てる役割」を全うしようとしているひとたちの姿があった。彼らの生きる表情は、その環境は貧しくとも、とても豊かに僕の心には映った。

これが僕が旅を誰かに伝えたいと心から思った瞬間だった。そこには僕が生まれてからずっとどこかで抱いていた「なんのためにひとは生きるのだろう」という考えの答えがあるような気がしたのだ。

そして同時にこんな思いが浮かんできた。もし僕が子どものころに、こうして世界を旅している人と出会い、ほんとの世界のことを知ることができたとしたら、僕は自分の人生を、そして世界をどう見つめただろう。そう思って、僕は日本に帰国して学校の子どもたちに旅の経験を話すことをはじめた。このときから僕の誰かに伝えたい旅がはじまったのだと思う。

旅の経験を表現しながら食べていくためには、たくさんの時間と大変なことがあってけれど、たくさんの人に支えられて僕は旅を続けている。

いまではいくつかの学校で年間授業を担当し、講演活動で各県をめぐり、また夏休みには日本の子どもたちとともに自転車で旅をするようになった。

こんな自分になるなんて、旅をはじめたころには想像もしなかった。人生プランなんてこれまでも、そしてもちろんこれからも描けそうにない。
けれど僕の人生が大きく変わったとき、そこにはいつだって誰かとの出会いや別れがあったのだ。それは嬉しかったり、悲しかったりしたけれど、ひとつひとつのピースになって僕の人生を形作っていった。だからこそいま僕はここにいる。

人生で起こることは変えられない、そして戻ることはできない。
いつだって「いま」しかないのだ。自分に起こったことをどう受け入れ、そこから意味を見出し前に進んでいくのか。明確なプランでなくとも、どんな思いを、ビジョンを描きながらこれからの人生を生きていくのか。いつだって、どこでだってはじめられる。そして僕だって、自分の人生の恩人だと思っている彼らのように、誰かのきっかけになることだってあるかもしれない。

僕はこれからも旅を続けるだろう。
なぜなら旅は僕にとって生きることそのものだからだ。

画像1

画像2

画像3

画像4

画像5


ここから先は

0字
月に4回程度配信。お金を払うのも、タダで読むのも自由です。

自分が自分でいられること。

¥500 / 月 初月無料

旅の日々で自分の心に浮かぶ思いや気づきを読み物として。僕の旅の生き方のなかで、読んでくださる方々の心に心地よい余白が生まれればいいなという…

自分の人生を実験台にして生きているので、いただいたお金はさらなる人生の実験に使わせていただきます!