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十返舎一九も来ていた松本。本町に散見する句碑についての雑記

普段見逃しがちだったり風景の一部と化して深く考えないモノが身近には沢山ある。

城下町松本の親町の一つ本町。
その本町大通りに散見する「句碑」は身近なものでありながらつい最近まで意識の外にあったもの。

どういう経緯でつくられ、いくつあるものなのか?
この歌碑について本町のWebサイトの残骸?で簡単に紹介されているものがあった。
http://www.matsumotohonmachi.com/himitu/haiku.htm

恐らく中央西土地区画整理事業の一環で、伊勢町や本町の道路拡張などに伴って作られたものだと思う。

散歩のついでに注意深く見ていくと、概ね本町大通り沿いに10基確認出来たので、この場所に句碑が建てられた背景も調べつつまとめてみた。

立廻す 高ねは雪の銀屏風 中にすみ絵の 松本の里。
狂歌堂真顔 (1753-1829)狂歌師、戯作者

今でも観光ガイドなどで見かける恐らく松本で一番有名な歌(狂歌)
松本を囲む雪山を屏風に例えた名吟。
狂歌堂真顔は鹿都部真顔(しかつべのまがお)の別名。江戸の狂歌師。その名声から
「狂歌四天王」
の1人に数えられるくらいの当時の有名人。
1805年に松本を訪れており、その際詠まれたもの。狂歌が親しまれた当時、真顔の松本来訪はちょっとした事件だったようだ。

深志神社境内の同歌の碑。
1826年建立。


又も来ん 清水の里の すみれ草
井上士朗 (1742-1812)俳人、医師

井上士朗は
「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」
とうたわれ、寛政の三大家の一人に数えられた当時の俳諧の有名人。

松本に訪れたのは1801年。

その際、女鳥羽川沿い、清水に逗留。逗留先が風情ある居心地の良い場所だった様子で、その際詠まれたよう。

清水の地名の由来ともなった湧水。
「槻井泉神社」の湧水。


井川より 引ていく世の年が経し 深志の城の松の木高し
浅井洌 (1849-1938)教師

井川、深志、松本とその名を冠した松本のお城と小笠原氏の歴史をなぞるように詠まれた歌。明治27年。

浅井洌は松本生まれ。言わずと知れた県歌
「信濃の国」の作詞者。
松本城内に校舎があったという公立松本中学校にて教鞭を取っていた際の教え子の1人に木下尚江がいる。


松本の 松吹き起こせ 初時雨
鶴田卓池 (1768-1846)俳人

鶴田卓池は前述の井上士朗の高弟
士朗と共に松本に訪れている。

初時雨とは晩秋、冬のはじめに降る雨の事を指し侘しい様を表現するのに用いられるようだが、その割に松吹起こせに随分勢いがあるよう感じるこの歌。どんな背景で詠まれたのかは不明。

目出たさは 是もときわの松本に 年をつもれる 雪の城山
十返舎一九 (1765-1831)戯作者、絵師

1802年に出した「東海道中膝栗毛」が当時大ヒットで超が付くほどの売れっ子作家となっていた十返舎一九が1814年に松本を訪れた際に詠まれた松本の過去から未来の繁栄を祝福する歌。
十返舎一九へ松本来訪のアプローチを度々かけ続け長年待ち望んだのが本町で書籍商を営んでいた高美甚左衛門。
彼が創業し一九の逗留先ともなった本町の書籍店が「慶林堂高美屋」。現在の「高美書店」である。
この句碑が立つのはその店先であるのはそういう歴史も踏まえての事なのだろう。

一九により描かれた「高美屋」の様子。
歌碑になった狂歌もこの中に見える。
「諸国道中金草鞋(しょこくどうちゅうかねのわらじ)」十三
国立国会図書館デジタルアーカイブより
http://id.ndl.go.jp/digimeta/878298

六十八の木下尚江うち笑ひ 世界の良き地は 松本ぞといふ
窪田空穂 (1877-1967)歌人、国文学者

窪田空穂は近代日本を代表する歌人の1人。
松本市和田に生まれ、現在その生家の向かいには窪田空穂記念館がある。

そんな窪田空穂が詠み松本を讃える歌の中に名が出てくる木下尚江(1869-1937)も松本生まれ。社会運動家であり作家。木下尚江は69歳でその生涯を閉じている。
最晩年の木下尚江の言葉をそのまま借りたのだろうか。尚江は若かりし長野県庁の所在についての主張が松本の人々に受け入れられず故郷から追い出されるといったエピソード持つ。
その尚江が笑いながら松本は世界で一番良いところ、と言ったという。
解釈が間違っていなければこの尚江の器の大きさを讃えつつ松本の素晴らしさを詠んだ歌。
当時尚江を追い出して後悔の一つでもしているような人がいたならば、さぞホッとしただろう。


この町や お城櫓の真むかひに雲の峯立つ 山まぢかなり
太田水穂 (1876-1955)歌人、国文学者

太田水穂は塩尻市生まれ。
和田小学校校長時に前述の窪田空穂と親交を持ち、和歌の世界へ誘う。

「雲の峰立つ」は分かりやすい表現。入道雲。詠んだ背景が分からないので素直に受け取るしかないが、夏の松本の様子を表現している歌。


いつの世に 植てちとせを松本の 栄え久しき 色をこそみれ
菅江真澄 (1754-1829)旅行者、博物学者

全国を旅し、その土地の風俗を巧みな絵と文章で記録した菅江真澄。
後に民俗学を創始した柳田國男が彼を高く評価し、民俗学の祖とも。
1784年に松本を訪ずれている。

出典元もわからず自分の教養のなさを恨むしかないが、ザックリ解釈するならば松本を訪れた際に松本の繁栄を讃えた歌なのだろう。

話はズレるが前述の通り、旅先での記録が評価されていた。松本での記録も残っている。

菅江真澄が描き記した松本の七夕
真澄遊覽記 [第27冊(巻3-4)] 巻3「来目路乃橋」より 国立国会図書館デジタルアーカイブより
http://id.ndl.go.jp/bib/000004356534


松もとに 身はぬれ衆のやどり哉
高井几董 (1741-1789)俳諧師

京都の俳諧師、高井几董(たかいきとう)
1785年の9月、旅路の途中に松本訪問。秋雨で濡れた自身の姿を色商売の人間を表す「ぬれ衆」に、松の木の下で雨宿りと松本を掛けているとの事。


信濃路を過るに 雪ちるや 穂屋のすすきの 苅残し
松尾芭蕉 (1644-1694)俳諧師

松尾芭蕉が松本に逗留したかは定かではないが、姨捨を目指し善光寺道を通ったようで、そうなると必然的に本町を通っていく事となる。

芭蕉句碑は何処に行っても見かけるが、松本でもあちこちで見かける。
文芸が盛んな地域だった証なのかもしれない。

大松寺の芭蕉句碑。
この界隈にかつてあったという「清宝院」。
句会、狂歌会など、文芸の集まりが盛んに行われたという。元々はそこに建てられたもの。


◾️雑記

ザッと10基の句碑についてまとめてみたが、古典、文芸など縁遠いため理解、解釈、歴史の大部分は次の書籍に頼りきったもの。(明治以降の人物についてはWeb上の情報メインと自身の教養不足からくる心許ない解釈)

「一九が町にやってきた」
鈴木利幸 著 高美書店 発行

2003年に発行された書籍。
江戸時代の松本の町人の暮らしぶりの一端が垣間見える良書。
江戸中期〜後期にかけて松本の文芸文化の広がりと町人の日常を、高美書店所蔵の豊富かつ貴重な資料もふんだんに使って浮き彫りにしている。

本町の句碑もこの本の出版の影響は大きかったんじゃないだろうか?機会があれば有識者の方にその辺伺ってみたいところ。

ところで、この本を購入したのは、昨年の秋頃。
あめ市関連のイベントに携わる事になって、あめ市を調べてる中で、初めて高美書店がヤバイ事に気がつき、高美書店にて購入。改めて本町の句碑についてまとめるに当たって読み直したがやっぱり面白い。
この本で知った一九が松本に来ていたという事実も驚いたが、むしろこの本から透けて見える松本初の書籍店を開業した高美甚左衛門の暮らしっぷりがとにかく面白い。
一九来訪を機に始めたという高美甚左衛門日記の一年半分くらいが解説付きで読めるのだが、割と詠んで呑んで遊んでる事が多かったりする。
江戸後期の豊かな町人生活がなんだか羨ましくなる。

Web上ではあまり情報はないのだが、かつて安曇野で開かれていた
「安曇野の文学 十返舎一九がみた安曇野」展
を見られた方のブログ記事には展示の様子の中に高美甚左衛門の人物画がある。
https://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b583b2a2ae66bb796dd2cc91f0282797

めちゃくちゃリア充
リア充っぷりの披露なんの躊躇いも感じさせないこの絵から透けてみえる甚左衛門の為人。
しかめっ面で偉そうにしてないのが本当好きだ。

この絵について書籍の方では簡単に「五清 画」とだけ触れているのだが、この五清は、恐らく「抱亭五清」。
かの葛飾北斎の弟子の1人で、そんな人が松本の高砂通りに住んでいたそうだ。
こちらにその交友の様子が記事にされていた。
http://alpico.jp/yomi/binofuukei/bino1.html

松本は文化的な香りがそこはかとなく漂う街だが、その根底には高美甚左衛門のような風雅な文化人の存在があったのだなぁ、と思った次第。

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