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流離と意馬心猿(3)「機能不全 あちこち」

流離(サスライ)

郷里をはなれて他郷にさまようこと。流浪。

使用例:さすらいラビー ※違う

広辞苑

意馬心猿(イバシンエン)

煩悩や情欲・妄念のために、心が混乱して落ち着かないたとえ。また、心に起こる欲望や心の乱れを押さえることができないたとえ。心が、走り回る馬や騒ぎ立てる野猿のように落ち着かない意から。

いろいろと考えが変わって、一つのことに落ち着かないこと。

対義語:明鏡止水

三省堂新明解四字熟語辞典・広辞苑

先日夢に、2週間で浮気された人が出てきました。お互いyoutuberの設定でした。夢の中の私たちはカフェでばったり遭遇するや否や、お互い「緊急で動画を回し」始めました。先方は私をヒステリックだと揶揄し、別れた原因をなすりつけてくるような内容を視聴者に主張して、さながらちびまる子ちゃんの藤木君のように、ねちねちニヤニヤと私に近づいてきました。夢の中の私はというと、怒りを堪えカメラを構えるしかできず、しかし隣にいた友人が、先方のライブ動画のコメントを印籠のごとく私に突き付けてくれたおかげで留飲を下げることができました。印籠コメント欄がアンチコメントばかりだったからです。

目が覚めると私の口角は上がっていました。お互いyoutuberという設定と、夢の中でも浮気者に味方はいないのだという倫理的成敗がツボだったようでした。
同時に、夢の中で鳥肌が立ったこともはっきりと覚えていました。先方は夢の中でも「あの」笑顔でした。余裕を滲ませて上がるあの眉尻。私を見つけても決して浮き足立つことのないその歩幅。

え?未練?悔恨??まさか。2週間とは14日で、14日とは336時間で、336時間とは20,160分で、20,160分は120万と9600秒で。膨大なようで、人生という枡に注げばこれっぽっちです。夢に出てくるのは、ある種の清算だと私は考えていますので、こうして文字起こしされて改めて、先方に対する感情が無だと確認できたようなものです。

さっ、すっきりしたとこで
半ば意地になりながらも ではいってみよう、旅3日目。


先日の交通事変(バス途中下車の乱・タクシー待ちの乱)を受け、この旅のしおり「宿には無課金・ご飯は超過金」に「移動は適宜課金」が加わった。
yahoo乗り換えの検索条件は「ゆっくり」に設定を変更し、迷子になったらGoogleマップではなく近くの人を頼ることにした。「急いで」に設定したところで、本数的に乗る電車は変わらないし、待ち時間が長くなるだけだ。ともすれば道中の景色に首を左右しながら「ゆっくり」向かう方が賢明だと判断した。

ビジネスホテルをチェックアウトして、駅に向かう。なんでもない平日の、なんにも知らない土地を歩くのは、なんだか変な気持ちがする。通学路、通り慣れた道ですれ違う人だって他人なのに、もっと”濃い”他人、のようで。
四日市駅、慣れない手つきで券売機で特急券を買っていると、隣でご老人がさらに慣れない手つきで、いや、彼と比べると私の動きなど滑らかそのものと言ってよかったかもしれない、もはや券売機の前に仁王立ちし、券売機に話しかけていた。
私から声をかけた、んだったと思う。STRANGER THINGS ならぬ THE STRANGERである私がご老人の助太刀となれる可能性は限りなく低かったが、これはある種の不可抗力だった。昔から独り言の激しい人を放っておくとなんか、背中がざらっとするのだ。
「どうやったら買えるんや」とぼやいてるご老人に、「難しいよねえ」とぼやき返す。あまりにひどすぎるこの助け舟の出し方の下手さに今でも思い出して笑ってしまうのだが、ご老人がこちらに気づいた。どっちが助けを求めてるか、端から見たら分からなかったかもしれない。
切符の買い方をご老人に伝えてその場を去った。聞いたこともない駅へ向かうあのご老人がもし今も四日市駅を彷徨っていたら、私はすぐにでも出頭しようと思う。元気にしていますか、ミスター好々爺。

こんな非日常も旅らしいか、とにやつきながら改札を通り抜け特急電車を待つ。我ながら能天気というか都合のいい性格だと思う。

伊勢市駅に着くまでどれだけかかったかは忘れてしまったが、自分と同じように伊勢神宮を目指しているであろう人が同じ車両にちらほら居ることに胸をなでおろす。外宮と内宮の参拝順をスマホで調べ、到着駅とその先のルートを思い浮かべている間に、電車が我々をお伊勢さんの足元に吐き出してくれた。


伊勢市駅に着いたのは11時過ぎ。
快晴とは空全体で雲の量がわずか一割以下の空模様を指すと習った小学生当時の衝撃を思い出しながら、視界に入る範囲では今日は快晴と呼んでもいいだろうと微笑みながら澄んだ空を見上げた。

この日はまた、「伊勢神宮参拝」の他の予定が何もなかった。
当初はこの翌日に「奈良で母と叔母と合流、祖父と面会」というメインイベントが控えていたのだが、祖父に誤飲性肺炎が認められ施設での面会ができなくなったという連絡を前日に受けたからだ。

カネコアヤノのライブも、樹齢千年のオリーブの樹も、おいしい中華も堪能したことだし桑名をゴールに一人旅を締めくくることもできた。しかし、だ。(こういう時の瞬時の判断を今になって思い返すと「慣れないことはするもんではない」と赤面では飽き足らないほどの羞恥に襲われるのだが、)
どういうわけだか
3日そこらでは旅「感」を得られない!行ったことのない伊勢神宮という強力スポット!この機会を逃すわけにはいかぬ!と、鼻息荒くもう数日ふらふらしてみようと、イキり倒した結論をくだしたのだった。

この前置きで勘のいい人は伊勢神宮でも旅先ないないが発動されることが予想できよう。前回で生まれたお気に入り造語:旅先ないない は、もはや私あるある、になりつつある。
今回の旅先ないないは、私の時間逆算装置と設備活用の知恵が機能不全だった。結果、自らの肩と背中に、「超重量級バックパックと超重量級♡6時間超デート♡」を強要する羽目に。へたに弱気な霊に取り憑かれるより疲れただろう。(おっとぉ!)

外宮での参拝後、内宮に向かうバスの中。
例によって落ち着かない初めての土地でヘッドホンはつけず、観光に頬を緩める車内の人々の会話を聞くともなく聞いていると、「猿田彦神社」という固有名詞を耳が拾った。音源に目をやると、殊 観光ジャンル:参拝 における最強クレジット、御朱印巡りおばさまご一行ではないか。なんかよさそうこの神社!と謎の納得感。あたかも自分もその予定だったかのように、御一行に続いて猿田彦神社で下車した。 

バス途中下車の旅 再び、である。歴史はこうして繰り返されるのか。

次のバスが来るまでにゆっくりここを参拝しよう。
にこにこしながらバスの時刻表を見る。

40分後。

にこにこが、3ミリだけ引き攣る。
神社の広さに賭け、回れ右。鳥居を一礼してから参拝、境内を見回す。

3ミリ引き攣った笑顔が、固まる。
予想以上に小ぢんまりとした空間であることに気づいたからだ。先ほどの最強クレジット、御朱印巡りおばさまズは見当たらず、勝手にさみしい思いが湧いてくる。神社の奥にご神田なるものがあるようだったので、そちらに足を向ける。

空間が、広がっていた。毎年5月5日には豊作を祈って早苗を植えるお祭り「御田祭」が行われるというご神田も、真冬のこの時期は青空の下に鎮座する神聖な空間だ。思っている数倍、空間、だったのだ。わけもなく深呼吸を何度か繰り返した。

境内に戻り、時間を確認する。次のバスが来るのは

33分後。

数分しか経っていない…だと…??漫画のような台詞が頭の中で響く。
おばさまズわい!?と、彼女たちに熱烈な視線を送るファンと化すも虚しく、境内にはちらほらと人がまばらに位置しているだけ。

この時この境内で、ひどい寂しさ・孤独を感じたことを覚えている。

参拝もちゃんとしたし、風景を写真に収めたし、空間をしっかりと味わった。正しく時間を使えている、と半ば自分に言い聞かせるようにして。
十数分は経った感覚だったから、余計に孤独が増幅したのだと思う。時間の経過と充実度が必ずしも比例すると考えるわけではないけれど、この時、時刻を確認したとき、唐突に、かつ確実に、自分が決して一人旅が巧くはないことを突き付けられた気がしてしまったのだ。前述の機能不全と、連日の移動の拙さも相まって。

御朱印巡りを嗜むおばさま方。バスの中の笑い声。私。一人。お供はヘッドホンと重量級バックパック。
ーーーあれ、なんでだっけ。旅もお伊勢さんも、全部、今が、なんでだっけ

今こうして思い出して書き連ねながら、自分のことを つくづく勝手な性格だなと思う。無意識に自分を相対化しようとする癖があるうえ、失敗して勝手に落ち込むところ。

だって、誰も頼んでいない そんなこと。

ここ数年で多少軟化できたと思っていた悪癖が、時間の余白ができただけでこうも簡単にまた見え隠れして、それにまた喰らって。
結局、旅先でバッドが入るのを本能的に避け、何食わぬ顔で鳥居に一礼して参拝を終えた。バスを待たずに歩いて伊勢神宮に向かうことにした。

この日は青空が本当に綺麗だった

なぜかおはらい町の人の流れに逆行することになったものの、外宮も内宮も思っていたよりあっという間にまわりきることができた。
なんなら歩幅を調整してゆっくり「楽しもう」と意図して参拝する人々の往来に目をやったり、川のせせらぎに耳を澄ませたり、てまり寿司のおいしさに一人客でありながら声をあげそうになったり、そんな風にして表情や思考回路をくるくるしている自分をまた、一笑に付す。


旅先ないない:時間逆算機能不全 発動中とはいえ、帰りのバスを逃すのはさすが笑えない。時間ギリギリの乗り換え案内に従い とりあえず奈良方面に向かっていると一本の電話が。私の行動を母づてに聞いた大阪の祖母からだった。(面会予定だった祖父は母方、この祖母は父方の、)「伊勢さんの帰り道ならそのまま今夜は大阪に帰ってき!いつもの焼き鳥屋さん予約しといたる!なんば駅の一番前の車両の階段からおいでや!」。今度は一笑に付す、のではなく、笑みがこぼれる。祖母のこの、勢いに助けられるがしばしばだ。

美味しい、楽しい、天気いい、綺麗、荘厳、あらゆる形容詞は共感してこそその意味を増すんだと、気づく。

見知らぬ土地でヘッドホンをしないのは現地の生活に溶け込んで安堵を共有したいからだけれど、行先と乗る電車さえ決まれば、自分の世界に帰ってきてもいいという安堵が生まれ、聴覚は土地の情報よりも好きな音を求める。
だから今は音楽を聴こう。最近よく聴く小山田壮平の THE TRAVELING LIFEなんて、アルバム名からぴったりじゃないか。そうしてヘッドホンの電源を入れる。「OH MY GODなんということだ」の歌詞のところで音楽が途切れる。接触不良で充電なくなるまで全く音楽聞けなくなる、たまになるヘッドホンのバグだ。機能不全、再び、である。
猿田彦神社の絶望をこの一瞬が軽く超えたが、参拝直後の心の整いがなんとか悪態をつくのを制御してくれた。


なんば駅に着いてからは祖母の勢いそのままに焼き鳥屋さんの席に着く。
素面では寡黙がちな祖父と、3人そろってビールで乾杯する。

美味しい、楽しい、うれしい、やっぱり形容詞は人と感じてこそ意味を増すな、と、空になったビールのグラスを置いて、思う。


当時の時間軸リアルタイム実況ベースで書くようにしてきたけど、とうとう回顧の文体が出てしまったわ。しかもちょっと元気なさそうな感じがする。自分で書いておきながら。
ただ間違いないのは、初めての伊勢神宮、お天気に恵まれて、良い時間であったこと。次は赤福ならんで食べたいな。おうどんも。一人旅、やっぱりご飯のおいしさを共有できないところだけは寂しいと、今も思う。
だから次回はだれかと行けるといい。

最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。最後の写真の焼き鳥屋さんは一兆というところです。マジで美味いので行ってみて下さい。牛ロースと唐揚げ。食べてください。食べてくださいね。

≪続≫

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