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三千世界への旅 縄文8 着る・飾る

新潟・十日町市博物館4


おしゃれな縄文人


博物館の展示には、食に関わる解説に続いて、縄文人の衣服・装飾に関する解説がありました。

それによると縄文人は麻を織って作った服を着て、櫛や耳飾り、首飾り、胸飾り、腕輪、指輪、腰飾りなど、色々なアクセサリーを身につけていたようです。

一般的に、石器時代の人類は毛皮など皮を加工した衣服を着ていたというイメージがありますが、それは土器を作らず、定住していなかった旧石器人の話で、縄文人はもっと進化していて、旧石器時代からの石器や骨角器も使ってはいたけれども、植物の繊維で糸を作り、布を織ったり編んだりして衣服を作っていたようです。

この技術がどこから来たのか、あるいは縄文人が自分たちでゼロから発明したのかに関する説明はありませんが、やはり植物系の素材から作った縄文時代のカゴや網などは、同じ時代の大陸にも似たようなものがあるので、意外と大陸との交流によってもたらされた技術なのかもしれません。


縄文式土器ピアス


アクセサリーでまず目を惹くのは、丸いドラム型の土器で作られた耳飾りです。縄文人は耳に穴をあけて、タイヤのホイールみたいなドラム型の土器をはめていたとのこと。耳に大きな穴をあけて耳をアクセサリーで飾る風習は、アフリカや南アジアの伝統文化を継承している少数民族に今でも見られますが、土器を穴にはめ込むピアスというのは、ほかに見たことがありません。

この土器ピアスは西東京市郷土資料室でも展示されていましたが、ここでもけっこうな数が展示されています。

大小さまざまな土器ピアスがあるので、おそらく子供の頃から耳たぶに穴をあけてピアスをはめ、だんだん大きいのに替えていったと考えられています。

ほかにヒスイなど石でできた輪の一部に切れ込みを入れて、耳たぶの穴に通す耳飾りも展示されています。

イラストに描かれた縄文人は女性も男性も髪をまとめて、櫛でとめていますが、これは遺跡から櫛が出土していることからの推測でしょうか。

耳飾りも彼らにとって重要な装飾だったようなので、これを見せるには耳を隠さないように髪を上に持ち上げて結んだりまとめたりする必要があったという推測しているのかもしれません。


ヒスイの勾玉


首飾りや胸飾りにもヒスイなど、美しい石を磨いて形を整えた玉が使われていたようです。小さな穴があいていますから、そこに紐を通して首から下げたのでしょう。

小さい玉はいくつもつないで首や胸を飾ったのかもしれません。

その中で目を惹くのは勾玉(まがたま)です。

勾玉といえば、朝廷のいわゆる三種の神器のひとつですし、弥生時代から受け継がれてきた神聖な宝飾品というイメージがあります。

ネットで調べてみると、縄文時代には勾玉の原型になるような、動物の牙をかたどったかたちのものが作られていて、それが弥生時代にこのいわゆる勾玉のかたちになったという説明をしているサイトもありますが、この縄文時代の勾玉はどう見ても、すでに後の勾玉と同じかたちをしています。

このカシューナッツみたいなかたちに神聖な力を感じる感性は、弥生時代やヤマト王権時代より古い時代からあったことがわかります。



神聖なものを決定する力


勾玉のかたちは、妊娠初期の胎児のようでもあり、神秘的な球体から生命が芽生えたところを象徴していると見る人たちもいるようです。

それだけ原初の時代から存在する根源的な感覚に基づいて、勾玉が作られるようになったからこそ、弥生時代からヤマト王権の時代まで神聖な宝として受け継がれたのでしょう。

重要なのはその神聖さを誰が認定していたのかということです。

一般的には支配者側が認定し、権力によって民に認めさせていたと思いがちですが、そうした権威が生まれ、確立されたのは弥生時代後半から古墳時代、ヤマト王権の時代であって、縄文時代にはまだそうした政治的な支配者や国家的な権力は存在していなかったと考えられています。

縄文人には土器や衣服や装飾品を作る専門の職人がいたわけではなく、あらゆる作業を家族や集落で行っていました。

今の我々が縄文土器や装飾品に感じる縄文の美学も、生活者であり道具の製作者であると同時に使用者だった普通の縄文人が共有していた感性だと考えられます。

勾玉の美しさや神聖さも、政治的な支配者・権力者が上から生み出し、下の民に浸透させたものではなく、元々民の間で共有されていたものを、後から生まれた国家や宗教的な支配階級が追認し、統治に活用したと見ることができるわけです。

つまり、神聖なものを認定する力は、元々民の側にあったことになります。



鏡と剣


朝廷・皇室の三種の神器のうち、勾玉以外は金属製の鏡と鉄剣です。

鏡は弥生時代末期から古墳時代にかけて、日本側の国家が自分たちの権威づけのために、中国に朝貢して従属国に認定してもらい、その印として与えられたものです。

鏡が反射する光も当時、神聖なものとされていて、今の我々が考える以上に、統治・支配に威力を発揮したようですが、当時の倭国で作り出したものではなく、中国から与えてもらっていたものです。

鏡が反射する光の神秘性を認定したのは、王権に従う地方豪族やその家臣たち、その下にいる一般的な民衆だったとしても、そこには中国大陸から来た権力の象徴という機能が初めから備わっています。

もうひとつの神器である剣は、銅剣ではなく鉄剣で、ヤマト王権が全国を平定した武力の象徴です。

鉄器は弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島や中国大陸経由で導入されたようですが、鉄器の輸入に始まり、材料である鉄の調達、製造技術の導入、武器の製造を大規模に進めた勢力が、戦闘で優位に立ち、全国統一を成し遂げることができたと考えられます。

三種の神器のうち、銅鏡が宗教的な力を象徴する神器だとすると、鉄剣は武力的な国家の力を象徴する神器です。



勾玉の特殊性


勾玉が特殊なのは、鏡と剣が当時としては新しい外国由来の製品であるのに対して、縄文時代から国内で作られ、民衆の間で受け継がれてきたものだということです。

言い換えると、国家・権力側が上から民の精神を支配するのではなく、元々民に支持されていた神聖さを国家・権力側が受け入れたということになります。

弥生時代に農耕社会への移行が進み、日本に富の格差や身分・支配機構が生まれた後も、縄文時代からあった価値観が存続し、支配機構の価値観の中にも取り入れられていったことは、日本という国や日本人、日本の社会の特性を考える上でけっこう大事なんじゃないかという気がします。


ヒスイ流通網


もうひとつ面白いと思ったのは、勾玉などの材料に使われているヒスイが、今の新潟県糸魚川市の姫川下流あたりで採れたものが、広い地域に運ばれて使われていたということです。

この地図は縄文後期後半から晩期のヒスイの分布を示していますが、本州だけでなく北海道や九州までヒスイが行き渡っていたようです。

縄文時代は一万年以上ありますから、そのうちかなりの期間は流通網もなく、近くの集落どうしが交換していくことで、自然と遠くまで運ばれたのでしょうが、その後、縄文後期後半から弥生人の水田耕作が九州北部に伝わるあたりの縄文晩期になると、縄文人の社会もダイナミックに変化し、物品の輸送や情報の伝達、遠隔地での漁撈など、さまざまな目的で長距離移動する集団が生まれたようなので、その頃になるといわゆる流通網が機能するようになったのかもしれません。


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