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眠れる森のビヨ考察(ネタバレ内容)

※今更ながら、千穐楽まで観劇を終えての考察や感想などを追記しました。(4/29AM)
4/29 14時から配信も始まりますので、またまた色々と新たに気付く点は多いかと思いますが、現時点での内容です。


巷で大人気、好評に次ぐ好評で既に平日ですらチケット難民が現れているあの「眠れる森のビヨ」について、本記事では主に筆者の考察について、書き連ねていこうかと思います。

言ってしまえば、個人のただの感想ですのでその他のキャラクターたちの細かい設定とか恋愛事情とかはこちらの記事に随時まとめていきますので、そちらを見ていただけると幸いです。

激しくネタバレしておりますので、すでに観劇を終え、2回目以降に臨もうとされている方向けの記事となりますのでご注意下さい。
配信待ちの方で内容が気になって待てない!ネタバレ見ちゃおう!と思って起こしいただいた方は引き返すことをお勧めします。










【筆者の考察:はじめに】

筆者は大前提として、この物語は全てヒカルの夢の中の話であることをもとに、あくまでヒカルの記憶の中にあるものから構成されていると捉えている。

もちろん現実の中で起きえもしていない、突拍子もないことが起きるのも夢であると思うが、一般的に夢とはこれまで起きた現実の記憶についての頭の整理を行い、その時の心理状態・身体状態によってある程度理由付けられた夢を見るものとして考えてみた。

つまり、5年前に現実で起きた事・起きなかった事が多少入り混じっていてても不思議ではないが(夢とは都合の良い事も悪い事もいくらでも書き換えて[書き換わって]しまえるものとして)、殆どは現実で起きていた事柄と想像する

【筆者の思う夢の中でしか起きなかった事】※個人的解釈による推測
・同級生となったヒマリとの学校での会話シーン(ただし、脚本作りに悩んでいるシーン等は場所や関係性が違いつつも現実でもあったかもしれないと想定)
・ヒマリ関連の幻覚が見えていると演劇部員に疑われるシーン
・ツムギとヒマリの会話シーン
・ツムギがブロック大会4日前に衣装・小道具類を破壊した事
・演劇部全員で三日三晩修繕作業を行なった事
・ツムギがブロック大会当日の朝、ヒカルを迎えにきた事
・ヒカルが遅刻せずに貸切バスが定刻通りに出発した事


【筆者の考察:ヒカルが見続けた夢】

筆者は事故が起きる直前までにヒカル自身の中で強烈な印象が残っている記憶=出来事(青春ど真ん中を仲間たちと駆け抜けていた日々と届きそうな夢、そして最後に起きた悪夢のような経験したことのない事故)を5年もの間、様々な記憶の結び付けを行いながら、何度も繰り返し見続けていたと想像する。(多少のハッピーエンド、バッドエンドの分岐はあったかと思うが)

その方面の知見は持ち合わせていないが、毎日眠り続けているヒカルにも外的内的な要因から身体の些細な変化は日々起き続けており、本演劇はその中でヒカルの意識が覚醒する直前に見た最後の夢であり、初めて見る分岐とエンディングだったのではないかと捉えている。

ただし、ここでもヒマリの願いや夢の中でのツムギの動き、特に後半シーンでの死人として演劇部員の立ち振る舞いについてもヒカルの意識下の範疇であり、あくまで誰かの思いなどが外部から反映された結果ではなく、単なる夢の中での出来事でしかなかったと考える。


【筆者の考察:夢の中への介入】

唯一、現実世界のヒマリだけはヒカルに介入することが出来た。それは、5年間毎日、目覚めぬヒカルのもとへ通い様々なことを語り掛け続けたからではないかと考える。
眠ったままのヒカルの潜在意識にどれだけ届いてるかはさておき、ヒカルの五感は物理的には生きている状態であると想定され(車椅子シーンでは少なくとも耳は聞こえていた)、外部からの情報を取り入れる人体のセンサーは生きている状態であったと思われるので、現実世界でのヒマリの声は常にヒカルの脳に何かの刺激を与え続けていたと考えられる。

つまり、それがヒカルへの介入であり、ヒカルが眠ってから唯一更新される現実世界で起きている事象だったのではないか。


【筆者の考察:ヒカルの目覚めと選択】

個人的にはヒカルが目覚めた瞬間、あくまで結果的に目覚めただけなので、現実世界のヒカルがこのまま永遠に眠り続けるか起きるか真に決断している状態ではないと想像する。

目覚めた直後のヒカルがどこまで夢を覚えていて、どのような感情を抱いたまま起きたのかわからない。
改めて周りから説明を受け、現実としての真実を知ることとなるがその時、ヒカルがどのように現実を受け止めたかは、車椅子でのシーンを受け手がどう解釈するかに委ねられているのだろう。

車椅子でのシーンは、「本当の幸せとは」を受け手側に委ねる場面と思われるので、ラストのヒマリの台詞が「キミのことを、応援してるよ」と伝えるシーンは呼び名を"ヒカル"ではなく"キミ"と敢えてすることで、ヒカルだけでなく、本演劇を見た観客にメッセージを伝えている側面もあると捉えている。


【筆者の考察:ラストシーンの解釈】

平井美葉、そしてBEYOOOOONDSの各人がラストシーンをどう描いた上で演じているかは不明だが、筆者としては本演劇のラストシーンを以下のように捉えている。

ヒカルは目覚めた後、改めて真実を知り、すべてを受け入れ現実世界で再び生きることを今は選択した。
これから毎晩、必ず終わってしまう幸せな夢が襲い続けてくる日々が来ても、自分が存在する明日を待ってくれていた人と、共に幸せだった昨日までを過ごした仲間たちがいたことを現実世界でも保ち続けるために。

きっと理想論でしかないと言われる解釈だと思っており、本当に辛い経験をしたことがない人の感想だと思う方は多いだろう。
筆者も正直、そう思われても仕方がないとは理解している。
(ヒカルは永遠に誰かのために生きるのか?取り残されたという強烈な感情は抱かないのか?など)

ただ、劇中での「死んでしまった私たちにはもう会えないんだよ?」というタマエの言葉も踏まえ筆者は、むしろ演劇部員11人だけで過ごした時間を現実世界で知っているのは今やヒカルだけで、亡くなった演劇部員の家族や他の友人など、ヒカルにとってのヒマリのような存在の人々に対して、時間がかかってしまうと思うが故人が生きていた証を少しでも伝えてほしい、そうやって亡くなってしまった仲間を少しでも多くの人の心に残してほしい、という願いがあるので、上記のような決断をしていてほしいと考えている。

筆者にはラストシーンの劇中歌では、ヒカルの表情はつらく苦しくても仲間と過ごした日々を無くさないためにも現実と向き合っている表情に映っており、演劇部の全員もヒカルの行動を肯定してくれている様に見えている。

また、これは完全なる妄想なので余談だが、もしかしたらヒマリが所属する演劇部が全国大会に出場することが出来てヒカルが応援しに行くかもしれない、はたまたヒカルが有名な脚本家になって、かつての仲間たちと過ごした日々や新しい眠れる森の美女を題材とした演劇を大ヒットさせるかもしれない、ヒカルとヒマリが幸せな家庭を築くかもしれない…など、前に進むことでしか出会えない、また違った幸せたちを見つけることが出来る可能性があるのも、現実の明日が来ることを選択しないと起きえないことだろう。



【その他:本劇における劇中歌の役割について】(追記)

本劇の劇中歌について、まだサントラ等は発売されていないが既に観劇を通じて全曲の歌詞を書き出している方がいるのでそちらを参照いただきたい。
(恐ろしい記憶力で感服でします。。非常にありがたい。。。)

https://fusetter.com/tw/N7p32KGb#all

筆者は基本的に、本劇を通して登場人物の本心は劇中歌で語られていると理解している。(ヒカルが記憶している当時の彼らの本心と、夢の中で登場人物としての本心として2パターンに分かれるが)

※劇中歌の歌詞だけで一本、記事になりそうなので追々書きたいと思います。。(遅筆すぎて泣きそう)


【その他:ツムギと夢子の存在について】(追記編集)

・過去の現実世界におけるツムギの存在有無
個人的にはツムギは過去の現実世界にもちろん存在していて、ヒカルとのただの良い友人(親友)だったと解釈している。
恐らくヒカルはツムギに熱い友情を感じていたし、大会が終わってしまうと離れ離れになってしまう記憶から、目覚める直前の夢の中で損な役回りをあてがわられてしまったと捉えている。(ヒカルもまた演劇部のみんなやツムギと離れたくないという感情の象徴としての役回り)

ただ、所謂三途の川の案内人としてツムギという夢の中のオリジナルキャラクターが混入してきたという解釈も大いにあり得る。
ヒカルの冒頭の夢を振り返るシーンでは「先輩、夢子、ノゾミ達」と仲間たちを列挙したが後半のバス事故による部員全員の死を告げられたシーンでは「先輩、ツムギ、夢子、みんな」と仲間たちを列挙する際のセリフに差分があり、これは夢の途中からツムギが紛れ込んだ事を表現しているのかもしれない。(もちろん、大会に向けた活動を通じてヒカルの中でツムギの存在が大きくなったという心情の変化を表しただけかもしれないが)

・夢子にもヒマリは見えていたのか?
これは筆者も森ビヨを観劇した友人と感想を言い合っている際に気付かされたのだが、改めて観劇してみると以下の点から夢子にもヒマリが見えていたのではないかと想像する。

①ヒカルに初めてヒマリの話を聞かされた際の台詞

夢子「ヒカルくん、誰と話していたの?」
ヒカル「幼馴染のヒマリだよ」
夢子「ふーん…、ヒマリ"ちゃん"…」

ここは怪しい点だが、ヒマリという名前で確信的に"ちゃん"付で名前を繰り返すのは少し不自然かと筆者は考える。

②県大会打ち上げのシーン
ツムギについては明らかにヒマリが見えている目配せやヒカルの幻覚に対する言葉に唯一反応しておりわかりやすいが、夢子についてもヒマリが去った瞬間のみ視線をヒマリ側に向け、去ったことを確認したのち、改めてヒカルに脚本演出家からの一言をしきり直しており、演劇部エースよろしく基本的にヒマリが見えてない振る舞いをしているが、このシーンにおいては見えている所作が見受けられた。
※筆者は複数回観劇しているものの、角度の関係でこの時の夢子の表情を一度しか見れていないのでここも怪しいと思っています。

上記2点から筆者は夢子にも実はヒマリが見えていたと解釈する。
ただし、ツムギと夢子がお互いにヒマリが見えていることを認識していた(更に言うとグルであった)可能性は低いと考えており、あくまでそれぞれ見えていた、という事実までに止まり、それぞれがそれぞれの思惑で行動していたと考える。


【その他:夢の中から目覚めるまでの時系列】(追記)

解釈が分かれるポイントであり、筆者自身も一部の台詞の中で繋がりに納得がいかない部分もあるが、現時点では以下の解釈だ。

・県大会打ち上げ、ツムギの転校の話
・ヒマリの登場、一度突き放すもヒマリの元へ戻りヒマリの話を聞く
・ブロック大会4日前の事件
・三日三晩の修繕作業
・ブロック大会当日の朝
・バスの中でツムギと対峙
・バスを降りて目覚める

後半については特に、現実世界での回想シーンや夢の中の過去のシーン振り返りなど、時系列や場面転換が複雑になっているため受け取り方によって解釈がかなり変わると思うが筆者は下記の事柄から上記の時系列となったと考える。

ヒカルは幼い頃からの習慣として泣いているヒマリを一人に放っておくことが出来なかった(本能的に帰ってきてしまった)。劇中1度目のヒマリを突き放すシーンには必ず続きがあったと解釈している。ただし、「真実は全て聞いた上で自分で判断する」「信じられるわけないだろ!!」といった台詞からも、この時点ではヒカルは真実を全て受け止める決意などはしていない状態で、ある意味、習慣として戻ってきてしまったと思われる。(特に信じられないとヒマリを前に憤りのような"叫ぶ"行為はその象徴かと筆者は考える)

・そしてヒカルは、ヒマリの話を真実として受け止めるべきか、誰を信じるべきか、何が真実か…。ブロック大会当日の朝まで悩みながら心を整理していたと思われる。

ただし、筆者的にも特にブロック大会当日の朝、バスの座席に座るまでの台詞回しはヒカルがまだ真実を知りきっていないようにも少し見受けられるため、時系列についてはもう少し考察の余地はあるが、現時点では上記の理解でいる。

ちなみに、バスに乗り込んだ後のシーンについては夢の中でありがちな場面転換を物理的な制約を無視して切り替わる場面を演出していると考えている。(ヒカルの現実の回想シーン挟んだ後、ヒカルとツムギの座席が反転しているシーン等※ちなみにこれはヒカルの「逆を考えてみたんだ」に呼応する演出かと思われる)



【その他:ブロック大会4日前に起きた事件の意味】

筆者は考察の中にも記載したが、この事件はあくまでヒカルの夢の中で起きたオリジナルストーリーと解釈していて、かつこの事件は目覚める直前に見た「最後の夢」でしか起きなかった事件と捉えている。
劇中ではツムギによって仕組まれたヒカルを死の世界に連れていくための最後の罠(演劇部員との絆をより強固にし、ヒカルにヒマリではなく演劇部員を選択させ、ヒカルを死に至らしめる)であったとヒカル自身が言っているが、個人的には本シーンは別の真の意味があったのではないかと考える。

本シーンは劇中歌にのせ、破壊されてしまった舞台装置や小道具・衣装に修復し、折れかけた夢にもう一度命を吹き込み前に進もうといった内容だ。
筆者は全てヒカルの夢の中で起きていることである前提でとらえているので、これはヒカルがもうすぐ覚醒する直前だけに見た(見ることができた)夢で、ヒカルの脳内で一度壊れてしまったヒカルの脳が活性化していく身体の変化に引きずられて見た夢ではないかと考える。

正に「新しい命を吹き込む 心臓がドラムのように響く」といった歌詞にあるようにヒカルが意識を取り戻す前のその刹那、本当は、演劇部員全員が一丸となってヒカルを修復し、強く脈を打てと語り掛けている様子を暗喩しているのではないか。



【その他:夢の中での演劇部員との別れ】(追記)

物語終盤、夢の中で真実を知ったヒカルが演劇部員との別れを決意し目覚めようとする中で、演劇部員が「真実でなくヒカルにとって何が幸せなのかを考えて欲しい」と説得するシーンについて筆者はこう考えている。
基本的に本劇においては劇中歌の歌詞は必ず本心を歌っていると解釈しているので、上述のシーンについても同様の解釈である。

手を取り合って すぐそばにいる
こんなにも強く そう焦らなくていいから
傷付いたら逃げる? 違うでしょ 正解はその先にある
遥か遠く遠くぼやけた光へ いつか未来は一つに繋がる
(歌詞抜粋)

ただ、このシーンにおいて筆者は、ノゾミだけは本心を言葉にしてヒカルに投げかけていると捉えている。
ノゾミの「いなくなるのは悲しいだろ?」という言葉は一見、ヒカルが目覚めないとヒマリが悲しむといったヒカルの言葉に相対する台詞にも聞こえるが、一方でノゾミは演劇部員の気持ちを代弁する役割を担っていたのでないか。
劇中を通して、ノゾミの性格や言葉選びはされど、物事の本質に素早く切り込んでいく姿勢から本来の言葉の意味は「(唯一生き残ったヒカルまで現実から)いなくなるのは悲しいだろ?」と問いかけたのではないか。そしてノゾミは歌い出した。仲間の本心を伝えるために、ヒカルが誰かの言葉に惑わされず、未来へ進むことを願って。と筆者は感じた。

またこのシーンの最後、演劇部員がそれぞれヒカルの名前を呼ぶが、夢子とノゾミだけはヒカルの名前を叫んでいないことについても、各々がヒカルにとっての幸せが何かを解釈した上での行動ではないかとも捉える。


【その他:ラストシーンについて】(追記)

・車椅子のシーンにおけるヒマリの立ち振る舞い
本シーンがヒカルが目覚めてからどのくらいの時間が経過した時点かは性格には不明だが、おそらく目覚めてから一年未満の経過ではないかと思われる。(ヒマリがまだ高校生のため)
本劇においては、基本的に全てヒカルの夢の中の出来事であったため、現実世界のヒマリと夢の中のヒマリに連続性はないと筆者は捉えており、ヒマリは過去の罪悪感などの葛藤を抱えながらも、奇跡的に目を覚ましたヒカルに対し純粋に喜びと安堵を感じているだけと思われる。
故にヒマリのヒカルに対する去り際の台詞も、ヒマリもまた当たり前の日常が当たり前ではなかったことを痛感した上で、確認する様に「また明日」とヒカルに言ったのだろう。

・劇中劇衣装の演劇部員、ヒマリと踊るシーン
解釈が大いに別れるポイントであり、正解がない場面であると考える。筆者の考えは考察にて記述したが、

みんなの声が揃えば 目の前に歓喜の花が咲く
悲しみの月は歌声で消えて 夢の中で続く

(歌詞抜粋)

劇中歌の歌詞において上記の内容は筆者的には仲間との思い出が悲しい夢となってしまった日々も、いつか現実の糧となる日が来ることを願っているものと捉えており、別の劇中歌の「いつの日か未来は一つに繋がる」の言葉とリンクしていてほしいと考える。

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