趣味のいい隣人

新聞を定期購読できる家庭は裕福だということに最近になって気づいた。
それ以外の人間がどうやって情報を得るのかといえば、テレビやネットニュースから情報を無料で手に入れる。
では、それさえできないの人間はどうだろうか。そもそも馬耳東風であるか、人づてに聞くか図書館に行くかだ。私のように捨てられた新聞を拾って読むのはごく稀だろう。
私だって最初から今のような生活をしていたわけではない。或る日突然、地震は起きたのだし、家が壊れて両親が死ぬだなんて誰にも予想できなかった。問題はその地震が大規模なもので、自宅はおろか、仕事先の会社まで崩壊してしまったことだ。その頃の私はスバルのBRZを買った直後で、会社が復旧するまでの間に口座に振り込まれた休職手当はたちまちローンで溶けてしまうのだった。失業手当が出たとしても、葬儀の費用と壊れた家の何もかもを綺麗にしたら手元に何も残らないのは想像に難くない。
当時の私は金銭のばかりを考えていて、現実が悲しみを侵食する速度に驚いてばかりであった。
新しい生活空間には必要最低限のものしかない。というか、それが精一杯だ。
簡素な部屋には似つかわしくないが、夜になると決まってクラシックが流れてくる。もともと音楽を聴く習慣のない私にとっては耳障りだったが、誰も傷つけないようなメロディーは何もない部屋にも優しかった。
また今夜も趣味のいい隣人の家からクラシックが聞こえてきた。
「これは何という曲だろうかーー」
ぼんやりと天井を見つめながら記憶を探るうちに子供の頃の風景が浮かんだ。
学校から急いで帰ってくるのは、父親が帰ってくるまでの数時間が自分にとって唯一ゲームができる時間だったからだ。いいところまで進めても父親が帰ってきてしまうから、毎日リセットボタンを押し続けた。それでも敵や宝の位置を紙に書き続け、昨日よりも新しい風景が見えることが楽しくて仕方なかった。
ある日のこと、父の帰りが遅くなると母が言った。
「ゲームをやっていい?」と私が聞くと「ご飯食べてからね」と母が答えた。
それからは早かった。
毎日積み上げた経験は無駄ではなく、無味乾燥に見えた荒いドットの勇者を魔王の前まで導いたのだった。
まだボスを倒す前なのに私は達成感に満ちていた。そのとき視界が突然に消えてしまった。
「ごっ、ごめん!」それで全てを把握した。母親が電源アダプターに足を引っ掛けてしまったのだ。
ハプニングというのは外からいきなりもたらされるものだ。勇者がいくら強くたってこればかりはどうしようもない。
その時の私の顔は母親からどう見えていたのだろうか。
怒りだろうか、それとも悲しみだろうか。私は私を覚えていないから分からない。
「ーー本当に頑張ってたもんね。ごめんね」
定かではない記憶。母親の謝る声。私を見ていてくれたのか。他人から見れば何て書いてあるのか分からないボロボロの紙切れが、日増しに増えていく過程を見ていてくれたのか。母親はもういない。
「車でドライブに連れてってやると約束したままーー」
「車なんて買わずに温泉旅行をプレゼントしていたのなら、もしかしたらーー」
隣人の家から聞こえるクラシックは止んでいた。呻き声が聞こえないように枕に顔を押し付けた。
#小説

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