目撃者

ある夏の午後の出来事。雲ひとつない空が続いていた。もう何日も雨は降っていなかった。それなのに地上を歩く蟻の列の前には大きな影ができていた。そうかと思うと、何か粘着質の物体が群れの行く手を阻んだ。
働き蟻たちはそれが食べ物であることを理解し、尻から分泌物を出して後方の仲間たちに知らせた。すぐさま仲間たちもそれに反応し、周囲は甘ったるいシグナルに包まれた。少しして、大きな音とともに風が吹き抜け影は消え去っていった。蟻の群れは散り散りになり、それから一〇分後に耳をつんざく音と赤色灯が現れる頃には蟻の姿はなくなっており、かわりに人の群れが現れた。
「いえね、あたしが見た時には可愛らしいぼっちゃんがね、帽子を被ってジーッとしてたんですよ」
「一人でしたか?」
「そう。一人でね。赤い顔をしていたから熱中症かと思って声をかけたんだけど、そしたらね目をキラキラさせながら蟻を見てたのよ」
「蟻ですか?」
「見たらね、お菓子をあげてるみたいだった」
「ちなみに時間は何時頃ですか?」
「そうねぇ、テレビを見終わってからだから、一時半を過ぎたあたりだと思う。うん」
「あたりには誰か他にいましたか?」
「いなかったと思いますよ。テレビでも外出を控えるようにって言ってましたし」
「そうですか。ありがとうございます」
母親は息子の帰りが遅いのを心配していた。
「遅いわねぇ。ケイタぁ!ケイタぁ!」
しびれを切らして家の周りを探していると、住宅街の路地に人混みと警察の規制線が貼られているのが見えた。背筋が凍った。
「何かあったんですか?」
母親は近くにいた初老の男性に尋ねた
「まだはっきりとは分からないけど、男の子が車に轢かれたみたいですよ。可哀想にねぇ…」
それを聞くなり母親は走り出し、規制線をくぐって警官の元へと走った。
「ゆっくりでいいですから、朝からの出来事を思い出して下さい」
病院の一室で刑事が母親から事情徴収を始めた。
「すっ、すいません…」
母親は瞼を腫らしながらどうにか話そうとしたが、流れる涙をおさえることができなかった。
「私にも子どもがおりますのでお母さんのお気持ちお察しします。簡単でも結構ですのでケイタちゃんの足取りを」
母親は呼吸を整えた。
「はい、午前中はクラスのお友達に暑中お見舞いの手紙を書いていました。お昼を食べてから手紙を出しに行ったんです。それで…」
「ありがとうございます。手紙を出しに行ったというのは何処までか分かりますか?」
「郵便局だと思います…」
「分かりました。犯人逮捕に全力を尽くします。ケイタちゃんの一日も早い回復を祈ります」
「ありがとうございます」
子どもを持つ親として犯人を許せなかったし、刑事のプライドとして必ず逮捕してやると刑事は思っていた。
しかし、思いの外捜査は難航した。
場所が昼間の住宅街だったうえに、その日は熱中症の警報も出ていたため目撃者がほとんどいなかったのだ。事故が多発する国道沿いならば周辺の店から防犯カメラの映像を見せてもらえるが、住宅街ではそうはいかなかった。
刑事の聞き込みは無駄足に終わった。
一方で、事故現場を調べていた鑑識も本気だった。小さな子どもが被害者の場合、いつもとは違う感覚が働くのかもしれない。
違和感に気付いたのは結婚したばかりの若手だった。
「先輩、これ何でしょうね?」
「ガムじゃないな。すぐに調べよう」
その違和感は根拠に基づいていた。ここ数日雨は降っていない。液体があるのは不自然だーー
午後二時頃の目撃者を探していた刑事は犯人の行動パターンを読んで、周辺に点在するホームセンターでカー用品を買った客や板金塗装屋へと聞き込みを始めた。
その結果、一人の男が捜査線上に浮上した。この男は事故現場の近くに住んでいながら、その翌日に隣の県にある板金塗装屋へ車の修理を出していたのだ。
「なぜ、わざわざ隣の県まで車を修理に出したんですか?」
「そちらのほうが安く済むので…」
「店員さんに聞きましたがあなた初めてそのお店に行ったそうじゃないですか?」
「たまたまですよ…」
「鑑識から分析が届いています。現場の路面に付着していたキャラメルと同じものがあなたの車のタイヤにへばりついていました」
「何キロも走っていればそういうこともあるでしょう?」
「ここ数日雨は降っていませんから比較的、新しいということです。それにタイヤにへばりついていた蟻なんですけどね、この地域にしか生息していないんですよ」
男は黙った。
#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?