怖いパンツ

堀内はいたって普通の毎日を生きてきた。
朝起きて食事と身支度を整えて、早めの電車に乗って席を確保して、インターネットのニュースを読み、駅に着いたら近くのコンビニで昼食の弁当を買って出社する。仕事が終わったら今度はコンビニで夜食を買って電車に乗り、電車に揺られて帰宅してーーと朝とは逆から行うのだった。機械的ではあるが生活は成り立っていたので、堀内はそれなりに満足していた。
ある日のことだった。つまらない男が歩いていると、前方に白い塊が見えた。
「ん、なんだあれ」
視覚に捉えながら歩みを進める。近くにつれて解像度があがっていく。
「下着?」
そのまま通り過ぎて白い塊は見えなくなったが、電車の中の本田の頭の片隅には確かに女性の下着があった。
「家の近くに銭湯もコインランドリーもなかったよなぁ。なんだろう」
いつものようにニュースに目をやる。検索窓に自分の住む自治体の名前を打ち込んだ。アイドルの一日署長、犬の里親募集、ビルの建設現場で不発弾を発見ーー
そこに下着泥棒の記事はなかったが、頭の中の下着は不発弾処理のニュースに上書きされたのだった。
その日はそのまま機械的に一日をこなしていった。仕事が終わったら誰かしら話しかけてもいいはずだが、誰も声をかけないのはつまらない男の普段の行いの賜物だった。
「それでは、お先に失礼」
「ほぉーい」
同僚の谷村は堀内に目線を合わせることもなく、鼻づまりの声で答えた。
「風邪ひいてんの?」
「風邪なのか分からないけど、今朝起きてから鼻がぐっずぐずなんだよね」
「花粉かもしれないね」
「あー、そーかもしれにゃい。風強いし」
「家に入る前にコートを叩いたほうがいいよ。(にゃいって何だよ)」
「あー、そーする」
「じゃあお先に」
「ほぉーい」
谷村は同期入社で長い付き合いだった。
あーと言うのは彼のクセであったが、つまらない男であっても内心、にゃいには突っ込まずにはいられなかった。
帰りの電車の中で一つのワードが頭に浮かんだ。
「風が強い…あっ」
予測変換、下着。
「風で飛んだと考えるのが自然だよな」
頭の中のモヤモヤが晴れた気がして、心なしか足取りが軽く感じられた。下着泥棒の記事が見当たらないのは、防犯意識の高い自治体が街灯の設置数を増やしたからであった。
朝、下着があった場所には何もなく、堀内はそのまま通り過ぎ、自宅アパートの近くに来るとポケットに手を入れて鍵を探った。それはいつも通りだった。
いつも通りではなかったのは、自分も家に入る前に花粉を叩いたことと、自分の部屋の前に下着が落ちていたことだ。
「うぇっ⁇」
驚いて声が出てしまった。
「いやいやいや、何でここにあんだよ」
一度もレギュラーになることはできなかったが、元サッカー部の数年ぶりのキックが炸裂して、夜露で少し湿り気を帯びた誰のものとも分からない下着は隣の部屋の玄関前に着地した。つまらない男はそれと同時に自宅のドアに身体を滑り込ませた。
「一体誰がこんなことをーー」
風で偶然飛ばされてくるはずはない。明らかに人為的だ。つまらない男は下着に恐怖していた。
「オレを恨んでいる奴でもいるのか? 職場の人間関係にも問題はない。ゴミの出し方や騒音で近所ともめたこともない。分からない」
思いつく限りの要因を考えてみたが、何も手がかりはなく、不安を抱いたまま眠ることにした。
朝目覚めて、機械的に動き出す堀内。
家を出る時に隣の部屋の玄関前に目をやると、そこに下着はなかった。きっと誰かが処分したのだろう。そう思って歩き出した。その数分後のことである。
「おい、嘘だろ…」
昨日の朝と同じ位置に下着が現れた。
堀内は目をとじて早足で通り過ぎ、電車のシートに腰を下ろしてから頭を抱えた。いつもならニュースに目をやる時間なのにずっと動かずにいるのは、自分に敵意を持った何者かからの戦線布告に思えてならなかったからだ。
重たい足取りでコンビニへ向かい、昼食の弁当を買って職場へ向かった。
「はぁ…」
「どうした?」
元気がない堀内に気づいた谷村は鼻にちり紙を詰めたまま彼に話しかけた。
「お前、悪化してるじゃないか」
「そうなんだよ。お前の言った通りにコートを叩いたんだけど、それでもダメだ」
「マスクしないの?」
「俺、マスクすると口の周りがかゆくなっちゃう人だからダメなの」
「(知らねえよ)お前、意外とデリケートなんだな」
「いや、違うよ。お前だよ、ため息ついてたじゃん?」
「ああ…」
「具合でも悪いの?」
「それがさぁ…」
堀内は堰を切ったように一連の出来事を話し始めた。自分の抱える問題を誰かに相談できるなら、それが顔の粘膜を爆発させた男だろうと関係なかった。
「へぇ、何その話。面白いじゃん。あっ待って、クシャミ出るーー」
谷村は掌を堀内に向けて会話を中断した。二人の間を沈黙が通り過ぎた。
「あっ、出なかった。でさ、それ本当に下着なのか?」
「え? どういうこと?」
谷村の見解が気になった堀内がクシャミに突っ込むことはない。
「道路によく軍手落ちてるじゃん。あれって、ごみ収集車が落としたりするんだよ」
「なるほど」
「それにさ、今まだ寒いから手袋を落とす人いるんじゃない? 玄関前で見つけたんでしょ?」
「そうだけど」
「手袋したままカバンの中や、ポケットの中の鍵って探さなくない?」
堀内は入社して初めて名探偵西村を尊敬したし、下着ではなく手袋だったという展開によって全てが解決すると信じてならなかった。
「そうかもしれない。別に確認したわけじゃないし」
「じゃさ、見つけたら写真撮って送ってよ」
堀内は名探偵が暴走し出したのを感じ取った。
「え?(お前は何を言っている)」
「オレざ、公園のオブジェにハトの糞がかかってたり、道路に落ちてる変なものの写真を撮るの好きな人じゃん。もし、また見つけたら写真撮ってよ」
「(知らねえよ)マジで言ってんの?」
「うん〝。気になるし、手袋でしたって確認にもなるじゃん」
「そうか。じゃあ、もしあったら写真撮ってみるよ」
相談にのってもらった身としては断りづらい状況ではあるが、西村の言うとおり確認して手袋だったら、つまらない男の貴重な笑い話にできる。
何もなければそれでいいのだし、確認するという目的ができたせいか、見えない足枷は外れていた。
相談にのってもらったお礼として、夕食の弁当を買うついでに飴玉を買って、谷村に明日渡すことにした。
レジ台にコンビニ弁当と飲み物と飴玉が入ったカゴを乗せた。
「お風邪ですか?」
「ええ。」
「合計860円です」
「ちょうどで」
「はい、こちらレシートです。ありがとうございました」
「ふっ…」
店から出たあと、店員の顔もろくに見たことがないのに顔馴染みになっているのがどこか面白くて、堀内は少し笑ってしまった。まるでドラマの主人公のように意味もなく空を一瞬見上げてから堀内は歩き出した。あとは未確認の白い物体を確認したら全てが終わる。
朝と同じーー
「あった。どうせ手袋だ」
位置にーー
「写メ撮らないとな」
下着がーー
「嘘だろ、100%パンツじゃないか。なんで手袋じゃないんだよ!」
取り払われた不安が一気に押し寄せる。さらに、堀内はそのパンツを撮影しなければならないのだった。
「マジかよ。(カシャ) 横のほうがいいかな(カシャ)」
画面を横にしたほうが大きさが分かると思って取り直すのは、その行為がどうであれ彼が几帳面であることを表していた。
そこへ誰かが忍び寄った。
「どうかしましたか⁈」
几帳面な男はその声の主をこうプロファイルした。年齢は自分と同じぐらいか、それより上であること。バリトンボイスであること。わざわざ声をかけるということは男性警官であること。そのプロファイルが導いた結果はーー
「あ、終わったな」
脳裏には、別にやましいことはないのにその場しのぎの為に嘘をついて切り抜けようとしている自分と、西村に話したことと同じことを話せばいいと考える自分がいた。
「靴紐でも切れましたか?」
「そっ…」
一瞬、口から嘘がこぼれそうになったが、もしスマホの中の下着の写真を見られたらアウトだ。言葉が意味を持つ寸前に堀内は後者を選択した。
「そうなんですよ、刑事さん」
「私は刑事じゃなくて巡査です。パトロール中でしてね、あなたがうずくまっていたのが見えたので声をかけました。で、どうかしましたか?」
「これを見て下さい」
警官は堀内の指差したところに女性の下着があるのを目で捉えた。
「これは一体?」
警官の返答にお前がやったのかという意味が含まれていることを堀内は知っている。爆破装置を解除するように言葉を選択しながら一部始終を話し、質問に対してはロジカルに回答するように神経を集中させた。
「なるほど。それは変な話ですね」
「そうなんです。誰かが意図的に置いているとしか思えません」
「最近はとくに不審者の情報もないんだけどなぁ」
ここで堀内は思い切ってこう言ってみた。
「あの、よかったら。自宅まで付いてきてもらえませんか?」
「んー。昨日も自宅前にあったんですよね?」
「はい」
「分かりました。イタズラかもしれませんし気持ち悪いですからねぇ。お供します」
「ありがとうございます」
「ご自宅は近いんですか?」
「ええ、このすぐ先です」
一般人からしてみれば警察は正義の味方でもあるが、疑惑の目を向けられた時には恐怖の対象でしかない。堀内が一本早い電車に乗る理由はシートに座ることで痴漢の冤罪から身を守る為だということをこの警官は知らないだろう。
「これが僕の住んでるアパートです」
「だいたい帰宅時間はいつも同じなんですか?」
「そうですね。昨日も同じ時間だったと思います」
「一応、玄関前まで伺いましょう」
金属のステップに足を乗せ、階段を登ってくる二人の到着を下着が待っていた。
「やっぱりある!刑事さん!」
「本当ですね」
「誰なんだよ一体!」
「誰かに恨まれるような心当たりはありませんか?」
「先ほども話しましたがありません」
「犬や猫と違って懐いた下着がついて来ることはないし、偶然とは思えないので何か思い出したらこの近くにある交番や警察に連絡して下さい」
「(えっ、この人ギャグ言うの?和ませるためのマニュアルか?)わ、分かりました」
「パトロールでこのあたりを周るようにしますから。では、失礼します」
「あっ、あの!」
「はい?」
「これ持っていってもらっていいですか?」
堀内は下着を指差した
「了解です」
そういうと、バリトンボイスの巡査はパンツをつまみあげてサッとポケットにしまい、会釈をして姿を消した。
「はぁ… 今日は早く寝よう」
隣人の矢沢はドアの隙間から家の中に入る堀内の姿を確認した。
「うふふふふふふ」
彼女は笑いが止まらなかった。
「堀内さんかわいい。大ごとになっちゃって超ウケる。全然私に気づかないし天然なのかな」
コンビニの深夜から朝番をやっている彼女は、毎朝顔を合わす堀内が愛想なのは自分に気を使っているのだと思っていたが、どうやらそれは本当に気づいていないと確信してからは愛情と憎しみを持っていた。
そんな彼女の趣味は道に変なモノを置くことだった。
#小説

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