⒉「野放図な命」

ついさっきまで電車から見ていた鮮やかな緑と木々たちは私の行く手を阻んだ。伐採はされておらず、野放図に伸びた枝葉は命を謳歌していた。それはまるで私に握手を求めているようでもあった。
どうやら甘く見ていたらしい。交流がないということは当然、道が無くなるということだ。これを人間は獣道と呼ぶのだろう。それと同時に正しい進路を歩いている確証はなくなった。カメラを回し始めたのはこのあたりだっただろうか。スイッチを押したのは『伝えなければ』という思いからなのか、それとも『命に危険を感じた』からなのか定かではない。
とにかく鬱蒼と生い茂る命の中で、私だけが不自然に真新しい道を切り開きながら動いていた。
しかし、風景は一変する。そのまましばらく行くと、突如として緑が無くなったのである。その空間は私以上に不自然で、全く緑が無いのである。存在する緑はといえば、角ばった岩の表面にこびり付いている苔ぐらいだ。
「もともと何かが存在していて、撤去されたのかもしれない…」
私はすぐにそう考えた。というのも人間が住む農村部には神に対して祈祷を捧げたり、五穀豊穣を願う祭りの習慣がある地域が多いのだ。村人が集まるための広場があっても不思議ではない。あくまでこの不自然はここに文明があったとすれば自然なのだ。
ただこの仮説は一分もしないうちに否定される事となる。
さらに少し進むと、地面が大きくえぐれていたのだ。それはとても大規模なもので、豪雨で川が決壊したとか、土砂滑りが起きたといった自然災害とは違う。あきらかに何かが落下したとしか考えられなかった。
その光景を見た瞬間、ゾワゾワと皮膚が湧き立って、私は夜が訪れるより先に走り出した。別に恐怖があったわけではない。私が私に『早く知りたい』と命じただけだ。地面が黒土から砂利道に変わると、私の呼吸の他にザクザクという音が混ざった。相変わらず人間の影はなく、沈みゆく夕陽の他に灯りもない。カラスが鳴かない静寂は人間社会が存在しないことを証明しているかのように思えた。目的地にたどり着いたのは、走り出して数十分ぐらい経った頃だろうか。物言わぬ丸い石が点在する中に民家がポツンと建っているのが見えた。カメラが無くとも鮮明に思い出せる。強烈な光景だった。
「本当にあった!」と「廃屋にしか見えないな」とが同時に口から出そうになる。人間が住んでいる家というのは外見から息をしているのが分かるものだ。都市生活においてそのシグナルが顕著に現れるのは郵便ポストであるが、この点で眼前の家を判別することは難しい。なぜなら人間の誰もが頭に思い描く家の形をしていなかったからだ。この特殊な形状はどう表現したらいいのだろう…。大きな岩をくり抜いて、窓とドアを付けたような見た目をしていて、私には機能美というよりも、存在を見せることが目的のように感じられた。にも関わらずその家は息をしていないのだから、強調されるのは『不気味』以外にないのだ。
「ごっ…ウウン。こんな時間にすいません。どなたかいらっしゃいますか?」
タンの絡まったカラカラの喉で確認をする。当たり前のように反応は無い。当然、灯りも点いていない。すでに噂の男性はどこかに移住したのだろう。すっかり冷えた身体には虫刺されの跡が増えていた。私は荷物を降ろして野宿の準備に取り掛かった。準備といってもやることは焚き木と寝袋を広げるだけだ。リュックの中にはクラッカーと缶詰があるので一晩くらいは何とかなる。こういう事には慣れている。ただ、問題があるとすれば火を着けて燃やすものが無いということだ。いくら探してもこの辺りには枝が落ちていなかった。こんな事ならさっき森の中で枝を拾いながら来ればよかったと後悔した。カメラのバッテリーに問題ないが、辺りを照らすライトについては自信がない。もしもライトが非常時に使えないのは困る。私が夜行性の動物だったのならば問題ないのだが、あいにくコウモリのように超音波で位置を確認したり、ヘビのように舌をチロチロ伸ばして温度を確認したりできない。今がいわゆる非常時だとしても生命に危険が迫っているわけでもないので、電池の消耗は避けたかった。
「家の中に明かりはないものかーー」
私は迷ったのだが家の中に入れてもらうことにした。しかし、これは人間の世界において住居侵入罪という罪にあたる。だから明かりだけ拝借して、朝になったら返すつもりだった。家主には申し訳ないが。
夕焼けの残り火を吸い取った石たちからは、暗闇さえも吸い取れる引力を感じた。最後に人間がこの場所を訪れたのはいつなのだろう。無機物と生き物とでは時間の流れ方が違うのだと改めて実感する。
緑青の付いたドアノブに手をかけ、ゆっくり回す。ザラザラとギリギリと唸る感触と共にドアが息を吹き返す。その瞬間にスルスルと紙切れが落ちてくるのを目の端で捉えた。紙を拾い上げるとそこには掠れた文字でこう書いてあった。
『あなたが誰だか存じませんが、私はもう居ません。家の中のものはご自由に使ってもらって結構です。正直者より』

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