祖母と私

その日は久しぶりに車を運転した。
どちらかといえば車の運転は苦手だし、そもそも車に興味もなかった。それでも、田舎の交通事情を考えると車がなければどこにも行けないし、この土地から抜け出るにはそれしか方法がなかったのだ。東京で働くようになってからは運転する機会もないし、逆に車を持っているほうが駐車場を探すのも面倒でお金がかかって仕方ない。都会でどうにか暮らすには最低限のものがありさえすればいい。
母親から電話があったのは三日前だった。群馬の山奥に住んでる母方の祖母の様子を見に行って欲しいという相談だった。私の幼少期の記憶では母親と祖母は仲が良かったはずだ。しかし、いつの間にやら不仲になっていた。私はまだ子どもだったから、その不穏な空気を感じつつも何だか訊いてはいけない気がしてそのまま触れることはなかった。祖母と最後にあったのはいつだろうかと考えても、答えは浮かんでこなかった。
とりあえず土曜日に実家へ行き、車を運転して祖母の家まで行くことにした。
「あーあ。週末は友達と映画を見ようと思っていたのに老婆の面倒を看なければならないなんて…」
私は運転しながら嘆いていた。その直後、危うく金髪のヤンキーが乗る原付バイクをひいてしまいそうになった。絵に描いたようなヒヤリハットだ。
「スッと出てくんじゃねーよ。これだから田舎は嫌いなんだよ!」と、不意に口からこぼれた言葉で田舎育ちの自分が都会かぶれの人格に変わっていたことに気づいた。なんだか笑えてきた。
あたりの風景は緑が広がっていた。
田んぼ、林、山とダイナミックになっていく。そのうちカーラジオからノイズしか聞こえなくなった頃、そろそろ祖母の家が近づいてきたと感じた。
それはなんとなくの感覚。来るのはほんとに久しぶりだったから記憶はうろ覚えで、徐行しながら、時々、タイヤが小石をペンッと弾きながら恐る恐る進んで行く。
「あっ、こんなのあったなぁ」
目の前に子供の頃見た貯水池と農道が現れ、その先に行くとようやく祖母の家があった。たしか赤い屋根だったはずだ。そのはずだが苔むしてしまっていた。
とりあえず車を停めて、私は開口一番なんて言おうかと考えた。
「おばーちゃん、久しぶり。絵里だよ。元気にしてるか見に来たの。うふふ」
祖母に対してどうやって接していたのかも忘れてしまった私は即席で別の人格を作ることにした。これは東京で身につけたもので、浅く広い人脈を作るには欠かせない能力だった。
一度、深呼吸をしてから車を降りてチャイムを鳴らそうとしたらーー
「あれ?チャイムどこよ…」
探してもチャイムがない。もしかしたらもう住んでいないのではないかという可能性が脳裏をよぎる。来る途中も人っ子一人いなかったし、もしかするとこの地域にいるのは自分だけなのではないか。そう考えるとなんだか怖くなってきた。
「おばーちゃーん!おばーちゃん!おばーちゃん!」
恐怖がそうさせたのか無意識のうちに魔笛のリズムで祖母を呼んでいた。するとドアのほうからギシギシという音がして、その中からアインシュタインみたいな老婆が現れた。
「おっ、おばーちゃん!久しぶり。絵里だよ。元気にしてるか見に来たの。うふふ」
「らぁ、リエかい。お帰り。入りなさい」
この人が自分の祖母なのか、本当に祖母なのか、違うともそうとも言えない、全く分からない。判断材料のない私にとっては老婆は忘却の塊にしか見えなかった。
「絵里だよぉ」
七十歳という年齢を考えれば認知症を発症していても無理はないし、そもそも祖母の健康を確認する為に自分は来たのだから、気になることがあれば後で母に報告しようと思った。
「入りなさい」
外観とは違って室内は思いのほか綺麗に片付いていた。
「おばあちゃんって綺麗好きなんだね」と私が言うと「リエがやってくれたんじゃないか」と答えた。
会話は噛み合わないが、どうやらヘルパーさんが面倒を看てくれているのだろうと私は考えた。友達に介護士の娘がいて、その子は地域自治体のヘルパーサポートに関わっている。きっと、祖母の住むこの地域にも同じようなサービスがあるのだろうし、昨今、老人の孤独死は社会問題にもなっている。行政がサポートをしているのだろう。
「へぇ、そうなんだぁ」と適当な相づちを打っていた。部屋の中を見渡すと、子供の頃に見た鹿の頭部の剥製があってギョッとした。
「びっくりした。まだこれあるの?」
「そのままだよ。構ってないよ。怒らないでおくれ」
なぜだか私よりも祖母のほうがうろたえていた。
「怒ってないよ。驚いただけだから」
祖母からしても久しぶりに会う孫とどう接していいのか分からないのだろう。予め電話をしておけばよかったなぁと思った。
その時、母親の「おばあちゃんに電話をしても全然出ないのよ。あんた見てきてくれない?」というセリフを思い出した。
「お腹空いてないかい?」
「んー。ちょっとだけ空いてるかも」
朝ごはんにグラノーラに豆乳をかけて食べたきり、そういえば水も飲んでいなかった。
「今ね、準備するからね」
「大丈夫? 準備できるの?」
祖母は手慣れた手付きで冷蔵庫の中からタッパーを取り出し、そのままレンジで温めはじめた。
なるほど。ヘルパーさんがタッパーで持ってきてくれるから、火を使わなくていいんだなぁと感心してしまった。それに、祖母は寝たきりではないし、自炊もできている。元気で良かったなぁと思っていた。
ふと部屋を見渡すと電話機は見当たらない。若者だったら携帯電話が主な連絡手段だが、高齢者の家に電話がないのは不自然に思った。
本当に無いのだろうかと部屋を見渡すと監視カメラがあったーー
「おばあちゃんこれなに?」
「…」
祖母はレンジの中で回るタッパーをじっと眺めているだけで、全くこちらを見ない。
「おばーちゃん。あのカメラはなぁに?」
私は先ほどよりも少し大きな声で尋ねた。
「…」
やはり応答はない。
「ヘルパーさんが付けてくれたの? 面倒みてもらえてよかーー」
その時、外から車のエンジン音が聞こえた。
「あれっ? 誰かきたのかな?」
私はそれこそヘルパーさんがやって来たのだと思った。こんな山奥の老人を世話してくれているのだから、孫として一応きちんと挨拶をしなければと、ドアを開けて外を見た。そこにはワイパーに枯葉が挟まったワゴンRが停まっていて、すぐ横に髪の長い女性がいた。女性は私の乗ってきた車をジロジロ見ていた。
「はじめまして、あのーー」
祖母がいつもお世話になっています。孫の絵里と申します。そう言おうとしたら女性と視線がぶつかった。女性は目をまん丸に見開いたかと思うと急いでワゴンRに乗り込み、ぬかるんだ庭に轍を作って走り去っていった。
「えっ???」
私にはわけが分からなかった。
どういうことなのか祖母に訊こうとドアを開けると、祖母は泣き崩れていた。
「イーイーイーイー」
引きつったような声で泣く老婆をどう対処したらいいのか、何から何まで分からない。
「どうしたの?」
「お前は絵里だ…お前は絵里だよ。分かるよ、分かるけど言えなかったの。ごめんよ…」
「どういうこと、さっきの人は誰?」
「お前だと言って、ここに居たんだ。リエだって。でも、お前は絵里だよ… 来てくれてありがと。助けておくれ」
祖母の話を聞いて私は全てを理解した。あの女性はヘルパーさんなんかではなく、孫になりすまして祖母の家に居座っていたのだ。リエというのは適当に名乗った偽名。祖母は私の名前が「絵里」であることを覚えててくれた。だから、あの女が孫ではないと分かったという。
しかし、女が電話をどこかにやってしまったうえに、監視カメラをつけられてからは誰にも助けを求められなかったのだという。
「おばあちゃん、怖かったね。ごめんね」
「ゔゔ…」
私は祖母を車に乗せて、すぐに警察署へ向かい母にもこのことを連絡した。
すぐに女は捕まった。行く場所も頼る人間もいなかったので、身元を偽り独居老人の家に押し入っていたのだと自供したという。
それから祖母は母の家で暮らすことになった。どうして仲が悪くなったのかを二人に聞くと、幼少期の私がイタズラをした時に鹿の剥製を使って祖母が追いかけ回したのが教育上よろしくないということで揉めたのだそうだ。どうりであの鹿に睨まれた時ヒヤリハットしたわけだ。
#小説

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