『エビス・ラビリンス』試し読み(13)

「幽霊屋敷」 ss

 玄関扉を叩く音が聞こえて、わたしはうたた寝から目を覚ました。時計をみるともう四時だ。緑が来たのかもしれないと、ぼんやり思った。
 昼過ぎ、孫娘の緑が突然電話をかけてきた。仕事で近くへ来ているそうだ。帰りに寄ると言うのでお茶菓子でも買っておこうと思っていたのに、すっかり眠りこんでいたらしい。
 玄関からの音は、こちらを急かすように鳴りつづけている。はあい只今と声を張り上げ、慌てて玄関の引き戸を開けると、待っていたのは夫の幽霊だった。二十年と少し前に死んだ夫は、時折こんな風に、前ぶれもなく家に帰ってくる。十一月も半ばだというのに、半袖のポロシャツ一枚で平然と立っている。見覚えのあるそのシャツは、生前勤めていたビール工場の制服だった。
「鍵、かけてなかっただろう」口を開くなり夫はそう指摘した。
「忘れてた」
 古びた玄関扉はどこかが歪んでしまったのか、近ごろは施錠するにも一苦労だ。鍵のことを思い出したとしても、億劫がっているうちにまた忘れてしまう。
「忘れっぽいのは変わらないな」
「そっちこそ相変わらず不愛想ね。せっかく帰ってきたのに」思い出して「お帰りなさい」と言うと、夫はわずかに顎を引いて応じた。しばし沈黙が流れた。
「行くぞ」夫は唐突に背を向けると、すたすたと歩き出した。
「上がって行かないの」
「先に散歩」背中がみるみる遠くなる。わたしは急いでコートを引っ張り出し、表へ出た。後ろ手に戸を閉めて歩き出すと、急に夫が振り返った。
「鍵、閉めたのか」
「忘れてた」

 夫がやって来た時には、家の周りを散歩することが多い。つぎはぎに舗装された細い道をゆっくりと歩く。あの時、夫はこの道で倒れていたのだ。帰宅途中、家まであとほんの数メートルだった。すぐに広尾の病院に運ばれたが、そのまま呆気なく亡くなってしまった。
 近所の柿の木の前で、夫は足を止めた。追いついたわたしもつられて見上げた。たくさんの実をつけたそれは、あらためて見ると威圧的なほど大きい。
「いつからあるんだったかしら」
「利佳子が五つのときだろう」夫は即答した。
「そう、もうそんなに前になるのね」道理でこんなに大きいわけだ。ふたりでしばらく、じっと見上げた。
 どうやら幽霊の夫には、生前の記憶にあるものしか見えていないらしい。それ以外のものは、ただの空白にしか見えないのだという。とりわけこの恵比寿一帯は、夫の死と前後して再開発が始まったから、見えないものも多いはずだ。とはいえ、昔ながらの景色が残っていないわけではない。この辺りは我が家を含めて年季の入った家が多く、二十数年前と大して変わらない雑然とした住宅街を形成していた。
 何度か角を曲るうち、次第に道幅が広がってくる。花屋のある角の向こうは、緑色の街灯が立ち並ぶ商店街だ。さらに進むとあらわれる三叉路の、きょうは左の道を選んだ。駅から少し離れている上、中途半端な時間帯も手伝って、あたりはしんと静まり返っていた。
「あそこは魚屋だったろう」真新しい飲食店を指さして、夫が言った。
「お店をたたんでしばらく空き家だったけれど、つい最近レストランになったみたい」夫が黙っているので、わたしは説明を加えた。
「入り口はガラスの扉で、中がよく見える。そんなに大きなお店じゃないわね。いまは準備中で、カウンターの中だけ電気がついてる。あら、石窯もあるわ。きっとイタリアンよ」
 厨房から出てきた店員がこちらを気にしている。わたしは夫を促して先へ進んだが、程なくして夫はまた立ち止まった。
「ここは鈴木の家だったろう」そう言われて、夫の元同僚のことを久しぶりに思い出した。
「確か息子さんのところに引っ越されたの。それで、お家はつぶしてコインパーキングにしちゃったのよ。残念よね、素敵なお庭だったのに」
「この時期なら椿でも咲いてたか」
「そうねえ、蕾くらいは出てたかも」
 こんな調子だから、散歩はいつだって遅々として進まない。みたび立ちどまった夫は、今度は細い路地を覗き込んでいる。わたしは前方を眺めた。西日に照らされた大きな交差点を車が行き交っている。横断歩道の向こうの長い坂道を上り切れば、ガーデンプレイスと呼ばれるエリアに辿り着く。かつては夫の働くビール工場だったそこも、いまの夫の目には巨大な真空地帯としか映らないだろう。
「この辺で引き返しましょうか」わたしがそう言うと、夫は上り坂の先を眩しそうに見やり、頷いた。
 来たときとは別の細い路地に入り、ビルの裏手を通って引き返す。室外機の風に他愛なく揺れる夫の風上に立とうと、わたしは足を速めた。
 家へ帰ると、湯飲みを二つ取り出してほうじ茶を入れた。俺はいいよ、と言う夫に、お供えものよと押し付けた。
灯りもつけない夕方の部屋は、庭に面した窓からの光でうっすらと明るい。立ちのぼる湯気の向こうに夫が座っている。湯気越しに見ると輪郭は一層ぼやけて、さっきよりずっと幽霊らしい。
「お前だって幽霊みたいなもんだろう。ひとりでこんな家に住み着いて」
(続く)