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〇ラムゼイ・ルイス87歳で死去~ジャズ、R&Bピアニストの巨匠

〇ラムゼイ・ルイス87歳で死去~ジャズ、R&Bピアニストの巨匠
 
【Ramsey Lewis Dies At 87】
 
(本作・本文は約8000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字で読むと、およそ16分から8分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと27分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)
 
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〇ラムゼイ・ルイス87歳で死去~ジャズ、R&Bピアニストの巨匠
 
【Ramsey Lewis Dies At 87】
 
訃報。
 
ラムゼイ・ルイス Ramsey Lewis 2022年9月12日シカゴの自宅で就寝中静かに死去した。87歳。本人名義のフェイスブックが日本時間13日朝6時前に報じた。
 

 
 
評伝。
 
ジャズ・ジャイアンツ、ピアノ奏者、プロデューサー、アレンジャー。ジャズのみならず、R&Bの世界でも活躍。
 
1935年5月27日シカゴ生まれ。4歳からピアノレッスンを受け、父がクワイア―ディレクターだった教会でピアノを弾くように。ジャズ好きだった父(ラムゼイ・シニア)が息子のラムゼイ(・ジュニア)をコンサートなどに連れていき音楽の道に。
 
1956年地元チェス・レコーズでラムゼイ・ルイス・トリオ・デビュー。
 
十数枚アルバムを出した後、トリオで1965年のドビー・グレイの「ジ・イン・クラウド」をインストにしてカヴァー。インストにも拘わらず全米ポップ・チャートで大ヒット。以後もコンスタントにレコード発売。
 
トリオはメンバーが変わり新ドラムスにモーリス・ホワイトが参加。モーリスは後にアース・ウィンド&ファイアーを結成。モーリスにとって、ラムゼイ・ルイスとアレンジャーのチャールズ・ステップニーは、二大恩師となった。
 
1970年代に入り、ピアノだけでなく、エレクトリック・ピアノ、キーボードなども駆使。
 
チェスから1972年コロンビアに移籍。
 
1974年、モーリスやアースのメンバーらの協力を得て、アルバム『サン・ゴッデス』発売、ヒット。(誕生秘話は後述)
 
1980年代から21世紀になってもコンスタントにレコ―ド(CD)制作、ライヴツアーを積極的に行ってきた。
 
1968年9月トリオで初来日。以後来日複数。1995年アーバン・ナイツのプロジェクトをGRPから発売。グラミー賞3回受賞。
 
ラムゼイ・ルイスはジャズだけにとどまらず、フュージョン、R&B、クラシックなども守備範囲。
 
「ジ・イン・クラウド」(ドビー・グレイ)→

 
 
「ジ・イン・クラウド」~ラムゼイ・トリオ→

 
 
「サン・ゴッデス」~ラムゼイ・ルイス→

 
2010年10月来日時東京ブルーノートでジャズ・セミナーを行った。
 
そのときのレポート→
 
①   「ジ・イン・クラウド」誕生秘話→

 
 
2010年10月3日
 
○ラムゼイ・ルイスのジャズ・セミナー~ラムゼイ・ルイス語る(パート1)
 
【Ramsey Lewis Jazz Seminar: Ramsey Talks About History (Part 1 of 2 Parts)】
 
講義。
 
ジャズ・ピアニスト、ラムゼイ・ルイスが東京ブルーノートで2010年10月2日(土)、「ジャズ・セミナー」を行った。約1時間20分にわたって、司会者の質問に答え、最後に演奏を披露した。今回のセミナーは、ラムゼイ・ルイスのチケットを購入した人が先着で無料で入場できるという企画。司会者があらかじめ質問を用意し、その質問に答えた。この様子はUストリームで生中継され、ライヴ後はアーカイブとして録音が見られるようになっている。
 
ラムゼイ・ルイスは話し口調も静かでとても知的な印象。そのピアノの音色からも人柄がわかる。司会者兼通訳役の日本語がおぼつかなかったが、半分くらいはラムゼイが言っていたことを訳してたと思う。
 
この様子は、現在Uストリームで録画が見られる。(現在削除)
 
 
用意された質問は、どのようにしてラムゼイ・ルイスさんはピアノを始めたか、教会で演奏を始めて学んだこと、その後、音大でクラシックを学んだことなど、大ヒット曲「ジ・イン・クラウド」誕生の話、アースのモーリス・ホワイトとの出会い、「サン・ゴッデス」誕生秘話(これはおもしろかった。司会者がこれを『太陽のめぐみ』(太陽の女神)と発音するので面白かった)、電子キーボード、エレクトリック機材について、ルイスが司会を担当するテレビ番組『レジェンド・オブ・ジャズ』について、今回ブルーノートで初演となる組曲が生まれた話、オーディエンスからの質問で、ピアノ・トリオへのこだわりについて、曲を作るとき何からインスピレーションを得るかなどについて。最後にちょっとだけソロでピアノ演奏を披露。最後の最後に、ほんのワンフレーズだけ「ジ・イン・クラウド」のリフを弾いた。質問→答え、質問→答えで、答えから次の質問は生まれず、記者会見のようだった。しかし、歴史を持ったアーティストの言葉は、どれもおもしろい。そのいくつかを。
 
ラムゼイ・ルイスの最大のヒット曲「ジ・イン・クラウド」について。
 
「チェスにやってきて、たぶん17枚目くらいのアルバムを作っていたときだったと思う。12枚目くらいから、いつも、アルバムの中に1曲だけ、『シリアス(まじめな真剣なストレートなジャズ曲)じゃない遊びの曲』をいれるようにしていた。ただ楽しめる、ダンスが出来て遊べるような曲だ。アルバムのレコーディングはほぼ終わっていたが、そんな『ファン・ソング(遊びの曲)』をずっと探していた。地元のコーヒー・ショップに行ったときのこと。そこにジュークボックスがあった。顔見知りのウエイトレスと話をしていて、『曲を探してるんだ』というと、彼女が『これ、聞いてみてよ』と言って、ある曲をかけた。それが、ドビー・グレイというシンガーの『(アイム・イン・)ジ・イン・クラウド』という曲だった。私は聴いたことがなかったが、メンバーの二人(エルディー・ヤングとアイザック・ホールト)は知っていた。それでカヴァーすることにしたんだ」
 
「私たちは、そのとき、木曜・金曜・土曜に『ボヘミアン・キャヴァーンズ』というクラブで1日2セット演奏して、それを録音していた。最初の日のファースト・セットの最後。私たちはいつも、最後には『ファン・ソング(楽しい曲)』を演奏することにしていたんだが、『ジ・イン・クラウド』を演奏するのをほとんど忘れていた。すると、ドラマーのレッドホールトが、小さな声で『ジ・イン・クラウド』を忘れるなというので、やった。ところが、そのときの観客のリアクションがいつもとまったく違っていたんだ。歓声をあげ、手を叩き足を踏み鳴らし、すごい反応だった。そのライヴハウス『ボヘミアン・キャヴァーンズ』は、ハードコアなジャズ・クラブで、たとえば、ジョン・コルトレーンやジョニー・グリフィン、セロニアス・モンクなどが出ていたので、『ジ・イン・クラウド』のような曲をやっても、彼らが気に入ってくれるかどうかさえわからなかった。だから、なぜかはわからないが、この曲で観客が踊りだしたりする強烈な反応に驚いた。毎日、毎回、素晴らしい反応を得た。今でさえ、確かにアルバムとしてはいいアルバムだとは思う。だが、あそこまでの大ヒットになるとは、その理由はいまだにわからない」
 
「アルバムは1965年の5月ごろリリースされたと思う。私たちがミシガン州デトロイトにいたときのことだ。チェス・レコードのオウナー、レオナード・チェスから電話がかかってきた。『どうやら、君たちはヒット・レコードをだしたようだ』とね。その時点で私たちは17枚のアルバムをだしていたので、『なんでいまさら、そんなことを言うんだろう』と怪訝(けげん)に思った。レナードが、言うには、アルバムの中にはいっている『ジ・イン・クラウド』を目当てにみんながレコード店にやってくるんだ、と。そういわれても、私はよくその意味がわからなかった。秋、9月か10月か11月あたりか、セールスが爆発的になってヒット・レコードを持ったって確信した」
 
モーリス・ホワイトとの出会い。
 
「モーリス・ホワイトはもともとチェス・レコードのスタッフ・ドラマーだった。当時のレコード会社は、自社アーティスト、シンガーのレコードを作るとき用に、スタッフとしてドラマーや他のミュージシャンを雇っていた。だから、モーリス・ホワイトはいつでもスタジオにいた。プロデューサーに頼まれればいつでもレコーディングしたわけだからね。そうして、私は彼と知り合うようになった。彼のこと知るようになると、彼は実に謙虚で、とても静かでとても礼儀正しい若い男だということがわかった。それに、とてもquestionable(疑問の残る、問題のあるという意味もある。だが、ラムゼイは質問をたくさんする男、という意味でこの言葉を使った。そこですぐに言い直した)な男だった。いや、正確に言うと、質問好きな男でね。(笑) たくさんの質問を私にしてきた。あなたは音楽出版社を持っているが、それは何をする会社なのか、とか、あなたにはマネージャーがいる、マネージャーというのは何をする人間なのか、とか。あなたには、ブッキング・エージェントというのがいるが、これは何なんだ、とか。そこで私は彼に尋ねた。『なんで君はそんなに質問ばっかりするんだね』と。すると、モーリスは答えた。『さあ、何でだろう。僕はただ、知りたいだけなんだ』とね。そうして、私の最初のトリオが解散し、ドラマーが必要になった。そこで彼にメンバーになってくれないかと誘うと、もちろん、と言って、(トリオの)メンバーになってくれたんだ。(メンバーになってからも)彼は依然とても静かな男だった。だが、プレイするとなると、炎が散るほどのものになったんだ。それもものすごい炎だ。ところが、演奏の最後にオーディエンスにおじぎをするときになると、彼はドラムスのシンバルの陰に隠れて、照れているんだな。そこでシンバルの位置が高いと思ったので、そのシンバルの位置を少し低くした。そうすれば、彼が座っていても、お客さんが彼のことを見えるからね」
 
「それから彼は3年ほど、ラムゼイ・ルイス・トリオにいたと思うが、あるとき、こう言ってきた。あと半年くらいで自分のバンドを作るんでこのトリオを辞めたいんだ、と。私は、『それは、すばらしい、すばらしい』と言い、『どんなバンドなんだ』と尋ねた。私はきっと彼がジャズのトリオか、グループ、カルテットかクインテットでも作ると思ったんだ。ところが彼は違うという。『我々のグループは、歌って、踊って、マジックもやって、ホーンセクションもいて、すごいことをなんでもやるんだ』と。私は、『ちょっと頭を冷やして、休め』と思った。彼はソニー・スティットや多くの素晴らしいジャズ・ミュージシャンと一緒にやってきてるんだから、そんな感じのグループができるはずだと思った。だから、彼の構想を聞いて、ものすごく驚いた。彼は言った。『ちがう、ちがう、僕のグループはR&Bをやったり、ポップをやったり、それにジャズの要素も加えるんだ』そして、後はご存知の通り、彼のグループは大変な成功を収めるわけだ」
 
こういう昔話は、本当に、生の情報で貴重だ。楽しい。そして、素晴らしい。
 
(この項つづく)(Cont'd to Part 2)
 
ENT>EVENT>Jazz Seminar>Lewis, Ramsey
 
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②   「サン・ゴッデス」誕生秘話→ https://amba.to/3RUgZSI
 
 
2010年10月4日
 
○ラムゼイ・ルイスのジャズ・セミナー~ラムゼイ・ルイス語る(パート2)
 
【Ramsey Lewis Jazz Seminar: Ramsey Talks About History】
 
講義。
 
ブルーノート東京で2010年10月2日に行われたジャズ・セミナー、ラムゼイ・ルイスの回。名ピアニストが歴史の一部を語る。1時間余にわたってストレートにさまざまなトピックを語った。あの大ヒット曲、アース・ウィンド&ファイアーも必ずライヴで演奏する「サン・ゴッデス」はいかにして誕生したか。
 
ラムゼイ・ルイスは1935年5月27日シカゴ生まれだから、現在75歳。スーツにネクタイ、言語明瞭でとても若々しい。記憶もはっきりしていて、その昔話がおもしろい。これだけリッチなヒストリーをもった人の話は、何をきいてもおもしろい。後にアース・ウィンド&ファイアーを結成するモーリス・ホワイトは、1960年代にラムゼイ・ルイスのジャズ・バンドでドラムスを担当していた。モーリスは1941年12月19日生まれだから、ラムゼイ・ルイスの6歳年下。ちなみに、モーリスの発音だが、「リ」にアクセントが来るので、カタカナ表記だとモリースが近い。ニックネームも「リース」だ。日本での表記は長くモーリスがなじんでいるが、このあたりで変更してもいいかもしれない。
 
「サン・ゴッデス(太陽の女神)」誕生秘話。「サン・ゴッデス」は1974年11月にリリースされたアルバム。最初のシングルは、「ホット・ドギット」、続いて、「サン・ゴッデス」がシングルとなりヒットした。レコーディングは1974年の春から夏にかけての間だった。
 
「『サン・ゴッデス』はちょっとユニークな形で生まれたんだ。ちょうどアルバムを作っているところだったが、その合間にワシントンDCでライヴの仕事があった。そのとき、モーリス・ホワイトから電話が来た。アース・ウィンド&ファイアーはちょうどニューヨークでコンサートを終えたところだった。モーリスは私と話したがっていた。というのも、私がレコーディングしたらきっと大ヒット間違いない曲が出来たから聴いてくれ、という。これは、『ジ・イン・クラウド』と比較にならないほど大ヒットになる曲だって言うんだ。『ジ・イン・クラウド』の10倍はすごいぞ、ってね。こんな人気になる曲なんてとても想像できない。これはあなたの曲だとまで言う。モーリスは、今どこで何やってるんだ、と訊くので、私たちはワシントンDCのスタジオでレコーディングしてもうすぐレコーディングも終えて、シカゴに戻ると言った。モーリスはニューヨークにいるから、シカゴに戻る途中でもいいので、もしよかったら、これを聴いてくれないかというので、聴くことにした」
 
「結局、私たちはシカゴに戻り、モーリスと何人か、フィリップ・ベイリーとあと2-3人のメンバーとスタジオで落ちあった。そして、彼らと一緒にその曲を3日間もかけてレコーディングしたんだ。完璧にするまでに、3日もかかったんだよ。かなりハードに一生懸命レコーディングした。なんとか、我々は最終的にその楽曲を完成させた。彼は言った。『さあ、これがあなたのヒットレコードができた』と。私は尋ねた。『さて、曲名は何というんだ?』 モーリスは言う。『ホット・ドギット(Hot Dawgit)』だ。『おお、そうか、それはいいだろう』と私は答えた。彼はとても興奮していた。『これは、“ジ・イン・クラウンド”を超える大ヒットになるんだ』って。で、そのレコーディングは終わると、モーリスが『そうだ、もう一曲、まだ歌詞もなにもついてないんだが、メロディーが頭の中にできてる曲があるんだ』と言い出した。きっと、私がプレイしたいと思う曲だともいう。レコーディングにはそんなに時間はかからないというので、ほんの2-3時間で軽く録音してみた。録音はすぐに終わり、みんなメンバーもとても気に入っていた。すると、モーリスは『なんかちょっとした歌詞が必要だな』という。私は何も歌詞を書いていなかった。じゃあ、どうするってなって、彼とフィリップ・ベイリーがスタジオに入り、エンジニアにテープを回すよう指示をして、彼らが「ウエイヨー、ウエイヨー」というメロディーを口ずさんだ。モーリスは、言った。『心配するな、心配するな、(この曲はほっといて、いずれにせよ)“ホット・ドッギット”は大ヒットになるから』 私は尋ねた。『2曲目に録った曲のタイトルは何だい?』『さあ、わからないな』といい、しばらくしてから、『サン・ゴッデス』にしようと言った。まあ、なんでもいい、いずれにせよ、『ホット・ドギット』は大ヒットだから」
 
「そこで、『ホット・ドギット』をラジオ向けにシングルとしてリリースした。モーリスがこれは絶対に大ヒットするからというんでね。ところがこれはあんまりラジオ局ではかからなかった。だが、アルバムが徐々に売れ始めたんだ。我々はなぜアルバムが売れ始めたんだ、と不思議に思った。そこでちょっと調べてみると、レコード店には人々が『ホット・ドギット』ではなく、『サン・ゴッデス』を求めてやってきていることがわかった。まだその時点では『サン・ゴッデス』はシングルにもなっていなかったが、その曲のおかげでアルバムが売れていたんだよ。そして、これはシングルになってアルバムは最終的にミリオン・セラーになったんだ」
 
「『サン・ゴッデス』でいくつかのエレクトリック・インストゥルメンタルを使ったのは、モーリスがそれらを使い始めたからだ。彼はフェンダー・ローズを使いたがった。エレキ・ギターもいた。シンセサイザーの音もオーヴァーダビングした。レコードの音をより正確に再現するためには、ライヴ会場でも同じような電子機材を使わなければならなくなった。ひとつを使い始めるとまたそこから次の楽器へとつながっていき、私はキーボード奏者を雇いいれ、ギター奏者を雇いいれ、2人のヴォーカルを起用し、コンガ奏者、サックス奏者までいれた。どんどん編成は大きくなっていった。クインテット、セックステット…とね。だが、最終的に、私はまたアコースティック・ピアノを弾きたくなった。アコースティック・ピアノは、私が最初に愛した楽器だからだ。最終的に、1970年代終わりから80年代初期にかけて、私のグループはクインテットに落ち着いた。正直に言うと、スタンウェイのアコースティック・ピアノなしには、私の音楽はありえない。エレクトリック・インストゥルメンタルは毎年新しいヴァージョンが誕生してくるが、それを練習するよりも、アコースティック・ピアノを練習する時間がもっと欲しかったね」
 
モーリス・ホワイトはよほど「ホット・ドギット」が気に入っていたのだろう。これは絶対にヒットになるからと、3日もかけてレコーディングした。ところが、ふたをあけると、火がついたのは、ほんの2-3時間で録音した、タイトルもなかったような「サン・ゴッデス」だった。ヒット曲なんて、どこでどう生まれるかわからないものだ。
 
まだこのほかにも質問と答えがある。その他は、実際の映像をみていただくとしよう。
 
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しかし、これはすごくいい企画なので、やってくれるアーティストがいたら、どんどんやればいいと思う。それと、どうせやるなら、ライヴ最終日ではなく、初日か2日目くらいにやれば、この話を聞いてライヴを見たくなる人もいるのではないだろうか。特にUストリームで中継すれば、この会場に来られなくても、その話からライヴを見たくなってプロモーションにもなるような気がする。そして、やるなら、ジャズあるいは音楽の知識のある人を司会者にして、日本語のちゃんとしたプロの通訳を使うとクオリティーがあがること間違いない。まだ試行錯誤のところだと思うが、ぜひ続けて欲しい。
 
■ 1時間20分におよぶ「ジャズ・セミナー」の全映像 (現在は、削除)
 
■ラムゼイ・ルイス 『サン・ゴッデス』(1974年)
 
(ジャケ写)

 
■ ラムゼイ・ルイス 『ジ・イン・クラウド』(1965年)
 
(ジャケ写)
 

 
ENT>EVENT>Jazz Seminar
 
 
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