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歩くってことは転ぶこともあるってこと

私が働いてきた高齢者施設は、問題山積みのところだった。
他にはきっと、暮らしやすい施設だってあると思うけど。
私が運が悪かったんだと思いたい。

私が施設の介護職をしていて、一番理不尽に思ったことは、歩くことができる高齢者の方を、歩かせないってことがあるってことだった。
歩いたほうが、足の筋肉も低下しないし、いい運動になってお腹もすくし、お通じにもいいし、循環もよくなるし、認知症予防にもいいのではないかと思ってた。

しかし、現場の空気は違った。
転ばせてはいけない。
転倒して大腿骨骨折したら、寝たきりの原因になるから危険である。
施設内で転んだら、お預かりしている「お客様」の「ご家族様」に対して、申し訳ない。(ご本人のためではなくて)
転んだらご家族様にすぐ報告して、丁寧にお詫びして、その場にいた介護職員はすぐに報告書を書かねばいけない。
そして、管理者に、ぐちぐち怒られる。(これが一番嫌だ)
何で転ばせたの。問い詰められるけど、「ご自分」で転んだんです。
管理者側は、とにかく裁判だけは避けたいのだ。

夜勤明けから日勤に入って、もう24時間連続で働いてるよなんてことを、ざらにやらされている職員は、やってらんないよーってなって、次の日から来なくなる。(ひどい場合、夜勤明けで車の運転して送迎している人もいた)

すると、働き手が一人減ったから、他の職員にしわ寄せが行き、仕事が回らないよ。一人一人のケアなんて丁寧にやってられないよとなって、高齢者ご本人の心は置き忘れたまま、「仕事をまわすこと」が一番大事になる。
だもんで、流れ作業で入浴介助。
衣服を脱がせる人が、はいよって、ストレッチャーにご本人を乗せてくる。
ひたすら、猛スピードでのおむつ交換。無言。汗だく。
一人で、いっぺんに数人の食事介助。
なんだか、燕のお母さんみたい。

つまり、転んだ時の事後対策は、ご本人のためでなく、お金を払ってくれるご家族様へのご機嫌伺いとなる。
もしかして、ご本人は多少は転ぶことはあっても、自分の足で歩きたいって思っているかもしれないけど。

そして、人手不足の負のループにはまって、「仕事をまわす」ことが第一目標となった現場では、高齢者ご本人の心が入る隙さえ見当たらなくなる。
つまり、介護は、いかに事故を起こさず、仕事をこなすかということになり、これは、高齢者のためでなく介護者側の仕事でしかなくなる。
要するに、ご本人のためではない。

お通じがよくない人は毎日下剤を飲まされ、あげくに入浴の間中垂れ流しになって、浴槽に入れなくなってしまう人達もいた。
もはや、人間の尊厳なんてない。

まるで、負のループから抜け出せない「無間地獄」のようだ。
鍵のかかった入り口。
歩けるのに乗せられる車イス。
立ち上がろうとすると怒られる。

正規職員はごく少数、ほとんどが、時給の安いパート勤務。
それさえ確保できないと、その日その日の派遣職員。

働く人もつらすぎる。
これでは、虐待が起きないわけがない。
介護職員の地位は低すぎる。
どれだけ、下に見られなきゃならないのか。
これは私の働いていた施設だけのことではないのではないか。
だから、「プラン75」なんて映画ができるのではないか。

長生きすることが、高齢者も、若い人も、「悪いこと」だと思わないような世の中に。
だれでも、自分の意思で生きていていいよって言ってあげられる「世の中」にしていきたい。

誰も、「お荷物」なんて言われないように。
人間なんだから。


八月の鯨
リンゼイ・アンダーソン監督
1988

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