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母親が障害児の責任を取らなくてもいい

立岩真也さんがお亡くなりになりました。
生存学、障害学などの分野で、障害や病気の方たちの生存を常に認めてくださっていた社会学者です。

20年ほど前、東京外語大学で、イギリスリーズ大学の障害学の教授にお会いして、私は初めて障害学という学問を知りました。
まだ、日本には障害学の専門学科はどこの大学にもなくて、私は関連の本を読んだり、「障害学会」の会員になったりして、一人で勉強しました。

障害学の本を、わかりにくい独特の文体で、たくさん書いていらしたのが立岩真也さんです。
くねくねとあっちへ行きこちらへ行き、なかなか文章が終わらず、簡単に書いてよと言いたくなる文章ですが、不思議に意味はよくわかるのです。
それは書いてあることが、本当のことだから。
そして、それをしっかりと伝えるために、くどくどなってしまったのでないかと思います。

そして自分でも、障害について書こうとするとき、こんなに簡単に書いてしまってよいのかな。もう少し、障害のある人にも、ない人にも、気持ちを配慮したほうがいいのかな。
と思って、すいすいと文章が書けないものだとわかりました。
立岩真也さんの言葉で、忘れられない言葉があります。

「おかあさんが、障害のある子の責任をすべて取らなくてもいいのです。」

と言う言葉です。
いまだに、この国は、「家庭」という、今では幻となった「家族」のかたちにすべての責任を任せて成り立っています。
子ども、障害、病気、高齢、などのケアはすべて、家庭単位でまかされるようになっています。
社会福祉の制度が不十分で、文化が成熟しておらず、政治家も大人になり切れていない未熟な社会では、すべてが、「おかあさん」に押し付けられます。
社会の風潮として、自分を犠牲にして、ケアに専念するおかあさんをたたえて美化しています。
おかあさんの犠牲で成り立つ社会。
障害のある人がいない家庭が普通。
障害のある人がいる家庭は家族で抱えて、お母さんに責任を押し付けて、他の人たちへの迷惑が掛からないようにしていくのが普通。

そのような世の中で、障害のある長女を育てながら苦しんできた私に、光をくれたひと言。

「おかあさんがすべての責任をとらなくていいのです。」

おかあさんもいつ病気になっても、いつ死んでもいいのです。
障害ある子を残しては死ねないなんて、言わなくていいのです。
おかあさんも、人生を楽しんでいいのです。
しっかり者でなくてもいいのです。
おかあさんも弱くて、だらしなくて、泣き虫で、ふがいなくていいのです。

生きている人たち、だれでも。
強くなくていい。明るくなくてもいい。
病気でもいい。
障害者であっていい。
迷惑かけていい。
絶望してていい。落ち込んでいていい。
お金稼げなくてもいい。

私はこの言葉に救われました。
ほんとうに、ありがとう。
立岩真也さん。

人間の条件 そんなものない 
立岩真也

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