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給食センターに行くことができました。

長引く躁状態に、母親は疲れ果て、長女本人は元気いっぱいの毎日。
大声で、一日中しゃべっています。
しゃべっているだけなら、まだ、いいのですが、女王様気分の長女は、しもべとしてみなしている母親の私に、命令口調で、怒鳴りつけます。
病気のせいだとわかっていても、腹が立ちます。
よくもまあ、毎日、辛抱しているわ。私。

苛立ちと易怒性と落ち着かなさという危なさを抱えて、生活している長女にとって、行事は天敵です。
今回の行事は、社会見学、給食センター見学と試食。
大難関であります。

毎日暑いですので、着る服の選択に混乱する長女。
重ね着して、暑かったら脱げばいいという概念はいっさいありません。
まあ、健常児でも小学校低学年くらいまでは、そうかもしれません。
そして、季節外れの暑さや、悪天候への不満までも、母親にあたってくるので、たまったものではありません。

ですから、あんまり、大変な場合は社会見学は欠席かもと、覚悟しておりましたが、なんと、無事参加できました。
そして、上機嫌で帰ってきました。

「ああ、おいしかった。きゅうしょくせんたーのごはんとてもおいしかった。」と大喜びでした。
「たけのこと、おにくと、たくさんはいっていた。」
メニューは、なんとルーローハン。

給食センターは、数年前に、現在地に移転してきたばかりで、最新式の設備です。
私の住んでいる町では、米軍基地が返還された跡地に、大学、特別支援学校、各種の福祉施設、病院、スポーツ施設などがつくられています。
ユーミンが、中央フリーウェイの歌を作ったときは、まだ基地だったところが、近代都市になりました。
いつだったか、老人ホームのお花見で、車で基地の跡地を通ったとき、ピカピカの街並みを見て、
「ここは、どこの国ですか?」と聞いてきたお年寄りがいました。

そして、その街並みを見るたびに私は複雑な気持ちになります。
日本の米軍基地の7割が沖縄県にあります。
私の町のこの基地跡地の何倍も何十倍も何百倍も大きい面積が、まだ基地として利用されています。
もし、沖縄の基地が返還されたら、どれくらい、沖縄に平和な街をつくることができるのでしょうか。


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