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サポーター五大乱入事件 なぜサポーターはピッチに乱入したのか。

Jリーグ、Jリーグカップ(および下部リーグである旧JFL)でサポーターのピッチ乱入が初めて報じられたのは1992年10月7日。Jリーグ開幕のプレ大会にあたるJリーグ・ヤマザキナビスコカップの浦和vs名古屋(大宮公園サッカー場)だ。福田正博のシュートがゴールネットを揺らし約300名がピッチに乱入したがノーゴール判定となり、乱入したサポーターは再びスタンドへ帰っていった。当時の浦和レッズサポーターは組織化されておらず、自然発生でゴール(もしくはゴール判定されなくてもゴールネットが揺れる)ではスタンドからピッチに乱入することが恒例行事となっていた。

1993年にJリーグが開幕すると様子は一転する。成績が振るわない浦和レッズサポーターが判定や試合結果に不満を募らせてピッチに乱入するようになり大きな問題となった。その後、鹿島アントラーズサポーターが敗戦の試合後にピッチに乱入するなど乱入は暴力的な行為に発展した。

最近ではサポーターのピッチへの乱入は滅多に起きることがない。しかし、いつ、またサポーターのピッチへの乱入が、何かの拍子で復活するかはわからない。サポーター史を振り返り、何が乱入を引き起こすきっかけとなったのかを整理しておくことは、今後の乱入発生の抑止の準備に役立つだろう。5つの乱入事件を取り上げてみた。


1994年11月19日 富山県総合運動公園陸上競技場  富山事件

浦和レッズの最終節ホームゲームは駒場スタジアム改修のために富山で開催された。浦和レッズは、この試合で3-6と大敗。最下位でリーグ戦を終える。以前から横山監督の采配等に不満を抱いていた浦和レッズサポーターがピッチに乱入し、更には選手控室の直前にまで迫った。「横山、辞表を出せ!」と叫ぶサポーターを浦和レッズの選手が身を呈してこれを止めた(これが選手とサポーターの間でのちに因縁を生み出すことになる)。浦和レッズ後援会は第7回RD EXPRESS特別列車で行く応援ツアーを開催し800名が参加。貸切列車のツアーの様子をテレビ埼玉で特集し放送したが、試合の後味が悪く、帰路については、ほとんど放送されなかった。


1995年4月26日 大宮公園サッカー場 シジマール土下座事件

こちらも駒場スタジアムが改修中で、浦和レッズがホームゲームを大宮で開催していた時期の事件。試合は3−2で清水エスパルスが勝利。清水エスパルスのGKシジマールが、試合終了直後に自分の後ろ側のゴール裏席に陣取る浦和レッズサポーターをポーズで挑発した。これに激昂した浦和レッズサポーター多数がピッチに乱入した。事態の収拾に時間を要し、最終的にはシジマールがピッチ上で浦和レッズサポーターに土下座して詫びた。


2003年11月29日 日立柏サッカー場 金町ダービー終了事件

JFL時代からFC東京を支えた「KING OF TOKYO」アマラオの最後の試合。リーグ最終節。試合は4-2でFC東京が逆転勝利。アマラオは2得点。試合終了とほぼ同時に東京サポーターが雪崩を打ってピッチに乱入。アマラオを祝福する意図があったと思われる。それを追い返そうと、反対側からは柏サポーターがピッチに乱入。スタンドからは「帰れ」コールが起こり大混乱となった。これまで、このカードは「金町ダービー」と呼ばれ、和気あいあいのコール合戦が行われる名物カードであったが、この事件でりょクラブサポーターの関係に終止符が打たれた。


2004年10月23日 カシマスタジアム 本田泰人暴行事件

浦和レッズサポーターと鹿島アントラーズサポーターのライバル関係がヒートアップ。試合前から、鹿島アントラーズのビッグフラグを広げる場所等で鹿島アントラーズサポーターと浦和レッズサポーターが小競り合い。鹿島アントラーズ側のゴール裏スタンドで煙が大量に発生するなどピリピリとしたムードの中で開催された試合。鹿島アントラーズは84分に失点し、この試合を2-3で落とす。ゴール裏スタンド前に挨拶に来た鹿島アントラーズ選手に罵声とブーイングが飛び、缶が投げ込まれた。鹿島アントラーズの主力選手である本田泰人が、それを拾いスタンドに投げ返すと、鹿島アントラーズサポーターがピッチに乱入。本田泰人選手をゴールネットに押し込んで集団で暴行した。


1994年6月5日 日立柏サッカー場 伝説のクラブの伝説の乱入事件

かつてPJMフューチャーズというクラブチームがあった。静岡県リーグから破竹の勢いで旧JFLに昇格してきたフューチャーズは、Jリーグ昇格の切り札・元ブラジル代表エースでナポリではマラドーナの相棒だったカレッカを擁す柏レイソルと初対戦。これを1-1からのPK戦で下す。すると、スタンドからフューチャーズのフラッグを持った男が警備員を蹴散らして乱入。警備員につまみ出されそうになり男は叫んだ「俺は社長だ!」。フューチャーズを牽引したのはワンマンで「ディエゴ・マラドーナ獲得構想」などで世間を騒がせた熱血名物社長の有田平だった。PJMフューチャーズは1995年に鳥栖フューチャーズと改称。Jリーグ昇格を目指したが1997年に経営破綻。あの日、日立台で乱入した有田平社長はクラブ経営を退く。フューチャーズは生まれ変わりサガン鳥栖となってJリーグ昇格を果たす。この乱入は日立台での乱入事件第一号といわれる。


乱入事件の発生には、サポーターとクラブの緊迫関係等の予兆がある。またサポーターがエキサイトするような節目の試合やストレスの溜まる遠隔地でのホームゲームでも発生しやすいといえる。


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