サッカー雑誌が「戦術論」に傾く。では、「戦術論議」はフットボールカルチャー発展に必須か?

部数の減少、休刊など、悪い知らせばかりだったサッカー雜誌に明るい話題が戻ってきた。発端は月刊フットボリスタ 2018年11月号だ。この号では「ポジショナルプレー」と「ストーミング」という話題の・・・しかも一般には理解されているとは言い難い戦術を解明することをテーマに据えた。

詳細な事例図解、多くの貴重なインタビューが話題となり、サポーターの間でも口コミで購入する人が増殖した。

フットボール批評も「その戦術はもう死んでいる?」をテーマに据えた。この3年間で急速に発展したフットボールの新潮流を解説している。

戦術の言語化が進み、これまで目にしていたプレーも戦術的に定義されることで、サポーターの間でも戦術論議が行いやすくなった。ネット上でも戦術論議は盛り上がっている。かつてない戦術論議ブームが到来しているといえる。

Jリーグ各クラブも新潮流に乗り遅れまいと、新たな戦術導入が盛んだ。

しかし懸念点もある。そうは言っても戦術論議は難しい。何かきっかけを掴むまでは、目の前の出来事すらも自分の言葉で説明することは容易ではない。

戦術論議がサポーターの間に見えない壁を作ってしまうのではないかという懸念だ。

欧州のスタジアムでは、目の前のプレーに一癖も二癖も難癖をつけるサポーターが多数いる。試合前のコンコースでも戦術論議は盛んだ。

それは日本のファン・サポーターにとっては憧れの世界かもしれないし、フットボールカルチャーの発達した国のスタジアムのあるべき姿なのかもしれない。

それでも、誰もが戦術論議をするフットボールリテラシーを持っていることが、フットボールカルチャー発達の証ではないし、戦術知識がなければファン・サポーター失格ということにもならない。

日本文化の一端を担っている大相撲で考えてみれば良い。

全てを欧州基準にする必要はないので、日本国内の例として大相撲で考えてみよう。大相撲は「国技」とも言われ、日本の伝統文化の一端を担うと同時にスポーツとしても男の生き様の例としても巨大なコンテンツである。大相撲の出来事は報道番組や情報番組でも大きく取り上げられる。大相撲は欧州におけるサッカーと同じか、それ以上に日本社会に溶け込んでいるのだ。多くの人が相撲を話題にできるし、相撲を起源とした単語を、何気無く日常生活やビジネスで使用していることも多い。

では戦術論議をすることが相撲カルチャーの証なのか?

日本文化の一端を担っている、あれだけ存在感の大きな大相撲を戦術的レベルで語る人は少ない。ほとんど出会うことはない。

それよりも誰もが楽しめる状況になることが重要だ。

大相撲中継では「上手を取る」「差し手争い」といった用語を解説することがない。それは、日本人に相撲が浸透しているので用語説明をする必要がないからだ。同じようなことはプロ野球中継にもいえる。「シュート」「タッチアップ」といった用語を解説することがない。

実は日本のサッカー中継でも用語解説は減少しているのではないか?

NHKではBS中継のときと地上波中継のときで、アナウンサーも解説者も明らかに喋り方を変えている。地上波では初心者でもわかりやすいような説明を加える。だが、以前と比べると超基本的な説明は減少しているように感じる。それだけ、現代の日本社会にフットボールカルチャーが侵食してきているからだ。随分と前からイエローカードはビジネスシーンでも使用される用語であるし、「2018ユーキャン新語・流行語大賞」には「(大迫)半端ないって」がノミネートされている。それだけを見ても、すでに日本はフットボールカルチャー後進国とは言えない。

「楽しいから」「応援すべきポイントが分かるから」・・・ファン・サポーターは戦術知識を身に付けておいて損はない。

ただ、それは楽しみ方の一つの選択肢にすぎない。「誰もが戦術論議をできる」ということがフットボールカルチャーの発展において必須条件ではないのだ。


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