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平成のはじめの「サポーター道」は令和の始まりまでに、どのように変わったか。

元号が平成から令和に変わった。平成はサッカー界にとっても大きな時代の転換期だった。無縁だったワールドカップの常連国となり、プロサッカー・Jリーグが立ち上がり、大きく発展。平成元年には日本女子サッカーリーグがスタートし2011年(平成23年)に世界の頂点に立つまでに至った。

さて、サポーターはどうだろう。1993年(平成5年)にJリーグが大ブームとなり、サポーターという新しい応援概念が日本に導入された。サッカーによって、それまでの「応援団」や「ファン」とは全く違う応援スタイルが日本のスポーツ界で切り開かれたのだ。

平成の初めの「サポーター道」がTBSで特集されていた。

新語・流行語大賞を受賞するほどの社会現象となったJリーグ。チケットは入手困難。難関を突破して毎試合のチケットを入手してスタジアムで応援するサポーターにサポーターが付くような時代に、TBSが1993年(平成5年)に「サポーター道」つまり、観戦方法をレクチャーする番組を放送していた。紹介しょう。

まず、注目していただきたいのが、タイトルバックに登場しているのが、今はなきヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の女性サポーターであるという点だ。当時のサポーターは10歳代〜20歳代のヤングジェネレーションが中心だった。

ただ「観戦する」のではない。一緒に「戦う」というのが、これまでの日本のスポーツ観戦には存在しなかったスタイルだった。

「三種の神器」として、マフラー、旗、ミサンガが挙げられている。ミサンガは、平成の半ばに、ほぼ絶滅した。手首に巻く、ブラジル流の編み紐のことだ。大半のサポーターが複数のミサンガを巻いていた。特に、応援に使うわけではないため「サポーターファッションアイテム」であった。ユニフォームは入手困難だっため着用率は低く、チームカラーのTシャツやオフィシャルグッズのシャツ等が着用されていた。それが、「三種の神器」にユニフォームを含んでいない理由だ。

「愛している」というマインドのみではなく「歌う」という具体的なアクションが求められた。それこそが、当時の日本のスポーツ観戦には存在しない応援方法だったからだ。当時のプロ野球はトランペットの合間に「コールする」「手拍子する」「三三七拍子する」程度の観戦スタイルだ。現在のプロ野球の応援スタイルは、Jリーグのサポーターの影響を強く受けて1995年(平成7年)頃に発展したことにより出来上がっていく。

平成の初めのスタンドには無数の旗が振られていた。したがって、旗を振るタイミングは「プレーが途切れた時」に限定されていた。ゴール裏で旗を振るのは言語道断の行為とされていた。平成の初めにはオフィシャルグッズのLフラッグよりも大きな旗は、ほとんど存在していなかった。

「立って観戦する」というのも当時の日本のスポーツ観戦には存在しない応援方法だった。それゆえに座って観戦する人たちとのトラブルを回避するために、安い試合を見にくい席で応援することが奨励されていた。表向きは「最も環境の悪い場所から応援することが素晴らしい」とされていた。

平成の時代の間にサポーターの応援スタイルは変化していった。

「三種の神器」からはミサンガが脱落した。スタンドの旗の数は大幅に減少したが、ゴール裏の一部のコアサポーターのエリアでは、試合中も大きな旗が振られるようになった。また、サポーターの概念は変化し、緩やかに拡張していった。これは、サポーターの年齢が高くなりシニア世代の割合が増えたこと、日本全体の高齢化社会の進行とも関連する。今では、ゴール裏で戦い、立って歌う観客だけがサポーターと呼ばれているわけではない。そして、ゴール裏全体が立って応援しているスタジアムは稀になってきている。

令和の時代を迎える頃には「サポーター道」が適用されるのは、ゴール裏のコアサポーターエリアの中心部だけに限定されつつある。

令和の時代のその道は、どこに向かっているのか、まだわからない。しかし、サポーターは、平成の始まりの頃がそうであったように、挑戦し新しい観戦スタイルやコミュニティを生み出していくであろう。

この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし 
踏み出せばその一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ

サポーターの観戦スタイルは時代とともに変化していく。


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