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11.兄妹の愛 ー愛の正体ー

ぼくには、「松子」という東京育ちのおばあちゃんがいる。
松子おばあちゃんは戦時中、集団疎開で新潟で暮らしていた。当時の記憶を話してくれることは少なかった。しかし2年前、松子おばあちゃんが密かに手元に残していた数枚の手紙を僕ら家族に見せてくれた。
ぼくはこの手紙から、兄妹愛とは何かを学んだ。


昭和20年(1945年)3月10日、東京の空は真っ赤な炎に包まれた。
後に「東京大空襲」と呼ばれるこの日、松子は家族を失った。

松子(当時7歳)には、朝吉(あさきち・当時18歳)という歳の離れたお兄ちゃんがいた。

空襲が始まる前に、松子は新潟に集団疎開することになった。

出発日の朝。

松子は朝吉に手を引かれ、彼が務める旧城(当時の皇居の呼称)の前に赴き、二重橋を見ながら「離れた場所でも頑張りなさい」と励まされたという。

それが、この兄妹の最後の別れとなった。


1944年11月24日以降、東京は毎日のようにB29から降り注ぐ焼夷弾に苦しめられていた。そんな中、朝吉は仕事と防火訓練の多忙な日々の合間を縫って、松子に手紙を書き、できる限りの物資を送った。建築の才に秀でていた朝吉は、松子への手紙に富士山や飛行機雲のイラストを添えて幼い妹を少しでも楽しませようと工夫した。彼自身の日記には、戦況の激しさや兵士になれなかった悔しさが赤裸々に書かれていたが、松子への手紙には、微塵も不安にさせるようなことは書いていなかった。

ここでは、現存する数枚の手紙の中から一通の内容を共有したい。

 今日ハ ソチラハ サゾカシ 寒クナツタデセウネ 東京モ十三日ノ明方ニ初雪ガフツテカラ 急ニ寒クナツテ来マシタ 二重橋前ノ青々トシタ シバフモ 今朝通ツタラ シモバシラ ガ 一面ニモクモクト出テヲリマシタヨ 兄サンハ一晩ヲキニ オ役所ヘトマツテルシ オ母サンモ毎日 クンレン ヤ キンロウホウシデ タイヘンデス
 イママデ 毎晩毎晩クウシウ ガ アツタノニ コノ 二 三日ハ チツトモコナイノデ トテモユツクリトネラレマシタ イママデ イツモイツモ ユツクリネテイタトキニハ タクサンネムレルコトヲ ソレホド アリガタク 思ツテヲリマセンデシタガ 毎晩ノクウシウニアウト ホントウニ ユツクリネラレルコトガ アリガタクナリマスヨ 松子タチモ ソカイシタオカゲデ ユツクリ ベンキヨウデキルノデスカラ ホントウニ アリガタク思ウヨウニ ココロガケナサイヨ
 松子ハ イツモ 元氣ナヨウデスガ カゼヲヒイタリ アタマガイタカツタコトハアリマセンカ モシソウイウコトデ オセワニナツタコトガアツタラ オレイノテガミモ ダサネバイケマセンカラ オ母サンニ オシラセシナサイヨ
 イヨイヨサムクナルカラ コレカラモ ナヲ カラダニ キヲツケテ ホカノ カタガタニゴメイワクヲカケナイヨウニシナサイヨ オウチデモ ミンナ元氣ニクラシテヲルカラ 松子モ オ母サンヤ 兄サンニ マケズニ ゲンキニ ベンキヨウシテ ツヨイ リツパナ子ニナツテクダサイヨ
 ソレデハ マタ オタヨリシマスヨ ゲンキデネ
昭和19年 12月18日
蔵地朝吉

この3ヶ月後、朝吉は東京大空襲で行方不明となった。

彼の手紙は、松子を思う気持ちで溢れていた。
「ゆっくり眠れるありがたさ」として幸福の感じ方を教えた。
疎開先で松子がお世話になっている方への配慮も忘れなかった。
松子に心配かけないように、元氣であると言い張った。

松子のことを考えて、現状でできる限りのことをする朝吉の姿に、ぼくは兄妹の愛を感じたのであった。




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Ecimo / エシモ

イラストレーター、グッズ販売、東京クイズツアーガイド|蔦屋書店をはじめ、世界20店舗にて書籍 Play Life Channel発売中|ウェブサイト https://yutoyamaguchi.jimdo.com |インスタグラム @ecimo_ts|好きな食べ物:蕎麦とカレー

愛の正体

「愛されたい、幸せになりたい」と誰もが言う。でも、どうしたら愛を感じられるのか、幸せだと言えるのか、分かっている人は少ないと思う。ぼくも、26歳にもなったのに、恥ずかしながら今まで分からなかった。この一年、様々な本を読み、たくさんの人と語り、やっとたどり着いた「愛の本質」を...
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