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春の衝動とセダムについて

春の土用になりました。毎年この時期になると私は家庭菜園のために畳一畳分の穴を掘ったり、種を蒔いたり、セダムをちぎってばら撒いたりととにかく「植物を増やす」ことに加担し始めようとするらしい。リスのようだ。

なぜそれをするのかと言われればなんかこう本能のようなものだと思います。でも考えてみてください。あなたが憎くて憎くて仕方がない、金属バットかシャベルで脳天をかち割りたい人がいるとしましょう。春はそういう破壊的な衝動も生まれやすい。変質者も出やすい。

しかし、実際にそれを実行すると犯罪者になってしまう。昨今の色んな犯罪を見るにつけ、自分もそのようになってもおかしくない、と思うことは実は結構ある。

そのような破壊的なエネルギーを穴掘りに向けるのは犯罪者になるよりかはよっぽど爽やかかつ生産的ではありませんか。それで無肥料無農薬の野菜もできるんだからすごくない?そのやり方はまた別の機会に。

思春期の少年少女が部活に打ち込むのもあの有り余るエネルギーを昇華するためだと思うんだけど、薪割りとか畑仕事の物理的かつ生産的な仕事もいいと思うんだよね。斧を持って振り回すのは街中だと危ない行為だけど薪割りは冬の暖をとるのに必須の行為だし、内転筋鍛えられるし。放火する人の気持ちもわからなくないから、彼らも然るべき場所に行って焼畑すればいいと思うんだよね。

春は肝臓に冬の間溜まっていた油が溶け出してそれを分解するためにフル回転、そのためイライラしやすい。ということで運動をするが吉。

今年はそんなに脳天をカチ割りたいほど憎い人はいないので、割と小規模な運動に留まっている。

破壊と創造は1セットだ。と誰か知ってる人が昔言ってたけど確かにそのように思う。そんな訳で私が今ハマっているセダムについて紹介します。

奴らはどれくらいが最小単位の生命かよくわからない。粘菌もよくわからない。しかし、ちぎったそばからゆっくりとではあるが根を生やすのだ。すごい。人間にはできない芸当だ。

私はそれらのセダム、近所の庭先や塀の隙間にひっそりと生えてる彼らの先っちょをちょっとだけ採取し、育てるのが春の密かな楽しみです。夏〜秋になるとその存在を忘れて、また次の春に大きくなった彼らに出会う可能性が高い。リスのようだ。

こないだ長野に断食に行ったけど、地域によって色んなセダムがあり、形状も異なる。それらのセダムも採取して、うちにあるいらない紙コップで育てる。「海の素」という海水から塩分を取り除いたミネラル水をちょっとあげると、根っこがニョキニョキ伸びる。植物ホルモンと何か関係があるのかな?

長野の木曽町にいた時は今頃は山菜を採ったり、山椒の新しい葉っぱが取り放題だったのでそれで朴葉ずしを作ったりだったけど、湘南にいたらいたでセダムとの付き合いがまた始まっている。

昨日は紙コップのセダムに、庭にあった苔をカーペットみたいに敷き詰めてみた。地表からの水分の蒸発が防がれるのか、水持ちがとてもいい。畑でも、土が表面にさらけ出されていると雨でミネラル分が流れてしまうので、何かしら緑で覆った方が良いとのこと。

このセダムのミニチュア感が箱庭的で好き。

しばらくはセダムを見てニヤニヤしてると思います。


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