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透明な愛について

愛にはいくつか種類があると思っていて、私が興味を惹かれるのは、透明な愛です。「透明な」というのは感覚的に表しているだけなので、とっても主観的な表現です。

友達だった人が、ヴィーガンになって、今まで、何回かBBQなどもしたことがあるけども肉を食べるのは「死体を食べている」として、およそコミュニケーションをとることが難しくなった体験がありました。同じベジの人でも友達でいられる人もたくさんいるけど、その人との交流はほぼ断絶状態。

岡山県で出会った百姓屋敷Waraの船越さんが「肉を食べる人に、愛がないというのだろうか。自分がわかったことを他人に押し付けるのは正しさ暴力だ」と言っていた。ソーヤー海くんも似たようなことを言っていた。「わかってること」を「わからない人」に伝えたい時に、どうしても「暴力」になってしまうパターンがある。「力の暴走」は色んなところに蔓延している。弱い人が暴力をふるえないということはなくて、弱かった人はいつか大きくなって、小さい頃に受けた暴力を「回せる人」に回す。伝言ゲームのようだ。それはありふれた構造だ。

なので、虐待を受けていたり、両親が離婚したり、大変な状況で生きていた子どもが大きくなって、暴力を振るわないで生きているというのは、それだけで、暴力の連鎖を断ち切っていることになる。虐待が連鎖するのは統計的には3割だそうです。残りの7割の人たちは何らかの形で連鎖を止めている。構造に逆らっている。

何かを憎んだり、復讐しようとするのは、それはそれで結構なエネルギーを要するし、持ち続けるのは大変だ。例えば泣いたりして、手放してしまった方が楽な場合がある。

透明な愛に触れることができると、人は勝手に癒される。旅先で出会った名も知らないおばあさんに透明な愛をもらったこともある。それらのものは、ただただ、静かに降り注いでいて、それらを感じることができた時に、既にその人は救われている。感じることができたら、救われるのに、感じることができないと、とても苦しむ。

それらを感じることができる感性が既にスタート地点から差がついていたとしたら、不平等な人生ゲームを敢えて楽しむために私たちは生まれてきたのかもしれない。

透明な愛は静かに、音もなく、常にふり注いでいて、何かを支配しようとしない。常に流れていて、止まらない。流れているので、常に与えられている。尽きることがない。なので、見返りを求める必要もない。流れているので。それを感じることができれば、既に救われる。

美しいと感じるものに触れられる芸術は、それらの透明な愛を感じることができるように思う。ある人は自然や動物に触れると感じることができるかもしれない。


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