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アガスティアの葉というのがあるらしい。

色々と遺品や写真の整理を今日もした。自分の持ってるものも錆びてしまったものとかもう何年も着てない服を処分した。父やおじいちゃんおばあちゃんの写真も慰安旅行とか飲み会とかの写真で絵を描くときの資料にならなそうなのは捨てた。全然知らないおそらく親戚であろう人たちの結婚式の披露宴の写真も処分した。うちのお父さんとお母さんの結婚式の記念写真も4枚も同じのあったからダブっているのを処分した。

今まで手をつけられなかった遺品に、ライフオーガナイザーという第三者の人がいてくれたおかげで手を入れられるようになった。6箱あった写真や手紙の段ボールが3箱に減った。「これが一番時間がかかるかもしれませんが、さっとでいいので一通り見ておきませんか?」という声がけによって取りかかれた。

絵も写真も、一度見たものや記憶に残ったものは結構覚えているものらしい。二度目に見たものはやはり見たことがあるとわかる。自分が3〜4歳の頃に描いていた抽象画のようなものも処分した。祖母のちぎり絵も1/3処分した。

天皇家のように家系そのものの記録に歴史的価値がある家でもない限り、代々持てる荷物には限りがある。自分が死んだ後には写真を持っていけないのに、どうしてみんな記録を残したがるのか、不思議な気持ちになった。

人間は、一度でも見た景色や光景は、実は全部覚えているのではないだろうかということをなんとなく考える。人生が一つのビデオ、あるいはテープレコーダーのように(出てくる機材がいかにも昭和っぽいw)ずっと記録されていて死ぬ間際になって全部巻き戻してレビューする=走馬灯になるのではないかと思う。どうしてそういう機能があるのかはまったくわからない。でもどうして走馬灯という言葉があるんだろう。後漫画とかで死ぬ間際にレビューして死んでくのなんでだろう。統計的にそういう人が多いのだろうか。

認知症になったおじいちゃんに、「今まで生きてきた中で一番悲しかったことは?」と質問したら「忘れちゃったあ」と言っていたので、辛いことや悲しいことがあっても最終的にはいい感じに編集されるらしい。しかし、辛いことや悲しいことを忘れると認知症になってしまったので、辛いことや悲しいことを抱えて生きるのは諸々の人間らしさとセットなのかもしれない。

写真やビデオはあの世には持っていけないけれども、アカシックレコードというのが異次元には存在していて、そこにはその人が人生で体験した経験や感情などのログが全て記録されているらしい。

アガスティアの葉といって、インドのとある場所に行けば、その人が生まれてから死ぬまでの出来事が全部書いてあって、それを教えてもらえるらしい。いかにも怪しい。人生に起こる出来事が事前に決まっていてすでに書いてあるならば、なぜその人生を生きるのか、その辺はちょっとよくわからないが、アカシックレコードのように自分の生きた記録がどこかに残されているという話は架空のことでもなんだか安心するし、そのような想像をするのは結構楽しい。

アガスティアの葉のことは、長野の佐久でほぼ自給自足をしているおばあさんの友達に教えてもらった。その話はまた今度。

冒頭の写真は庭の春菊でした。



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