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夏の日の記憶

幼稚園の頃、同級生たちと大きな公園の池で遊びまわったことを、さっき唐突に思い出した。ちょうど今日のような暑い日で、季節も同じくらいだった。そして、いまも記憶に残っているくらい、とても楽しい出来事だった。裸足で、公園内の池や川に飛び込み、駆け回り、叫んだり、水を掛け合ったりして、アドレナリンが大量に出ていたはずだ。同級生の母親たちも集まっていて、にこやかにこちらを見つめながら世間話をしていた。その中にはもちろん、私の母親もいた。

いま、あの時の母親と同じくらいの年齢になった。オンボロ長屋のような家に住んでいたことも覚えている。同じような形態の家が周りに何棟もあって、どの家にも同年代の子供がいて、みんなと遊んだ。夕方になると、焼き魚や、卵焼きの匂いが、排気口から漂ってきて、バイバイをしてみんなと別れた。いまその家があったエリアは、グーグルマップで確認すると、隣接する中学校のテニスコートや、野球場や、更地になっている。約30年前の出来事が、幻のように感じられる。

あの頃は、私は目の前のことにしっかりと集中できていた。たとえば川に飛び込み、そこから池まで川の中をじゃぶじゃぶと走るという行為に、没頭し、集中していた。友達に対しても「やあ、一緒に遊ぼう!」とか「おはよう!」とか活き活きと挨拶できていた。それは他の同級生たちも同じはずだ。毎日が活力と希望に満ちていて、充実していた。私は、あの頃の感覚をもう一度、取り戻さなければならない。

小学校に上がってからは、だんだんと嫌な出来事が増えていって、私はすっかり自信を失って、周囲には権謀術策が張り巡らされていると思い込み、常に周りの出方を伺いながら、下水に生きるネズミのように、ビクビクしながら、狭い視野で、下ばかり向いて、後ろ向きな気持ちを原動力とした努力によって獲得したものを目の前にして暗い喜びに浸り、他人と自分を比べて優越感を抱いたり打ちひしがれたり、人を選別したり、愚痴ばかり言い、気に入らないことがあればすぐ感情的になり、人を論破することに快感を覚え、悪口と苦労話を人に自慢することが酒の肴になるような、そんな人生を歩んできた。今も会社ではそうだ。こういう生き方からは、もういい加減卒業しなければならない。

義務教育や大学教育というものが、本当にすべての人間にとって良いかどうかは、よくわからない。少なくとも私は、中学や高校で、何か良い思い出があるかと聞かれると言葉に詰まってしまう。普段は、思い返すだけで嫌な気持ちになるので思い出さないようにしている。大学は、自由な校風だと謳う教授が多かったが、それは裏を返せば何一つ指導をしないということで、今から考えても、あれはただの怠慢だったとしか思えない。大学名のブランドにすがって、今から振り返っても信じられないくらい偉そうにしている性格の悪い嫌な教授が多かった。そして私も、信じられないくらいバカだった。いまも、理不尽な仕打ちを受けた、嫌な教師や教授の顔ばかり、思い出される。恩師と思える人は一人もいないし、同窓会に行きたいなどと思ったことは、一度もない。

両親との軋轢や、義務教育や大学教育によって、次第に歪んでいった自分のマインドセットというものを、もう一度、私は矯正しようとしている。結局のところ、今あるような自分を形成したのは自分自身なのだから、それを矯正するのも自分でしかない。自分の人生は一度しかないので、これまで自分を騙し続けてきた人々を恨んでも時間の無駄だ。自分の人生がどこか何か変だな、という風にずっと思い続けながら生きてきて、それが確信に変わった頃に、こういう思い出が突如として自分の脳の海馬から蘇ってくるということは、それはあの頃の自分からいまの私へのエールなのかもしれない。あの頃の自分は、世界や両親や仲間たちをきちんと心の底から愛することができていた。あの時の気持ちをもう一度、思い出そう、君ならきっとできるよ、と昔の自分は私に語りかけている。


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