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『小説』が私の人生に登場するときの配役は。


「小説、読まなくなったんだよねー。


だって読んでも得るものはないじゃん。

そりゃ、心情を慮る配慮の心とか、

情操的な力をつけるとかさ、

そういうのは分かるけど、

俺は実用書しか読まなくなったね。」


「だって実用書は俺の人生に役立つこと

が書いてあるから。

でも、実用書の中でも本当に役立つことって一握りじゃん」


「他の余計なところを読む時間って

勿体ない。

必要なところだけを短時間で得たいから、

速読の能力が欲しいよ。」





飲み会の席で、読書の話になった時に先輩が言っていた持論。

私はこの持論を聞いて、

「AIみたいだ。」

と思った。


この人、AIに仕事を奪われないように自分のスキルを高める!


を根底に書いてある世の中のほぼほぼの実用書を読んで、

AIになりたいのかなって。


私は小説も確かに読むけど、読書もまぁ趣味として履歴書や、


果ては受験の書類の趣味欄にも書いてきたけど、


最近は実用書やエッセイなど、リアルな現実に片脚を置いた本を読むことが多かった。

だけど、それは自分の不安がぼんやりほんよりと


現れてきたことに対する、ちょっとした反抗のようなもので。

なんというか、人生の時計に対する反抗期、みたいな感じの、


いわば悪あがきに似ている。

そう気づいたのも、ふと図書館で手に取った小説を読み進めている時だ。

今までも、全く小説を読まなかったわけじゃなく、


どちらかというと、簡単な、先々の展開が少女マンガのように


明確な本を読むことが多かった。


たとえ分かりきった展開だとしても、


それまでの様々なイベントやキャラクターの心の移ろいが


自分に少し重なって、その時だけは本の中の主人公になって。


分かりきった結末の匂いを、プンプン感じながら


物語の中を生きていくことは、この上ない安心と、


何度噛み締めても飽きない、現実には起こりにくい


トキメキを与えてくれる、簡単で明確な小説を読んでいた。


それは今でも好きだ。


だけど、こうゆう、何というか。


自分の人生の先々を芳しくみせてくる小説ではなく、


今いる、今存在している自分を深く掘ってくるような小説は、


ほんとに運命的にしか出会えない。


だいたい、直感で出会ったものだ。


そして多分、今しかこの衝撃は受け取れない。


自分側の体勢と、思考力と、教養と、出会うタイミングと、状況と、、、。


とにかく、全てが完璧に揃わなければ発動しないこの衝撃は、

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