見出し画像

八月の怪談


2015年 夏の感謝祭企画 交渉人シリーズ番外編

 

 人はなぜ怪談が好きなのか。

 怪談、すなわち怖い話は、ネガティブな情報である。たとえ創作であったとしても、それが心身に与える影響は大きい。恐怖感から脈拍は乱れ、呼吸は浅くなり、血圧が上がり、鳥肌が立つ。どう考えても健康によくなさそうだが、それでも人は怪談が好きだ。

 もちろん絶対に受け入れられないという人もいるだろう。怪談の「か」と聞いただけで、耳を塞いで全速力で逃げ出す人だっているかもしれない。 だがそこまでの拒絶反応を示すケースは、むしろ少ないように思う。諸外国の状況までは知らないが、少なくとも日本国内において、ホラーというジャンルはエンタテインメントとして確立しているのだ。人々は自らホラー小説を読み、ホラー映画を見て、遊園地ではお化け屋敷で派手にスクリームする。

 しかも受動的に楽しむばかりではない。一般の人々ですら、怖い話のネタのひとつやふたつは持っている。夏ともなれば仲間内で集まり、その持ちネタを披露しあったりするのが、すなわち日本人なのだ。

 ちりーん。
 風鈴が、鳴る。

「ああ、これで大丈夫と安心した瞬間、ポコッてLINEの通知音がして……スマホを見たら『いま、うしろだよ』って……」

「ぎゃああああああああ!!!」
 叫んだのは智紀である。

 顔を歪ませ、藍染めの甚平姿でキヨにしがみついている。一度着たら涼しくて楽だったらしく、この夏休み中は愛用しているようだ。ドクロのプリントなどがされた、今時のものではなく、しっかりとしたしじら織りの上物だ。しがみつかれたキヨはといえば、いつもどおりの無表情を保ったまま、だが顔から血の気が引いている。どうやら怪談は不得手らしい。でかい図体だけど、可愛いとこあるんだな。

「えー、そんなに怖かった?」
 笑うのは、話し手だったアヤカだ。
 熱帯夜の九時過ぎ、東京下町にある芽吹ネゴオフィス……つまり俺のオフィス。
 接客スペースのテーブルに並ぶのは、茹でた枝豆にトウモロコシ、漬け物、スナック菓子とビール、智紀用のコーラだ。今夜は我がオフィスで、納涼怪談大会が開催されている。いや、俺が自ら開催したわけじゃないよ? 最近エアコンの調子が悪くて、一日に七十回くらい「暑い」と言ってたら、さゆりさんが「それなら涼しくしましょうか」と提案して、たまたま事務所に来ていたアヤカがノリノリになったという経緯である。

「よくある話だからイマイチだと思ったんだけどなあ。最近これっていうネタがなくて~。七五三野さん、怖かったですか~?」
「こ、怖くはない」
 ピシリと姿勢のいい七五三野だが、そのこめかみにツーッと汗が流れていた。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをやや緩めた俺の親友は仕事帰りだ。さっき、ちりーんと鳴った風鈴は七五三野が演出用に持ってきたもので、事務所内に吊されている。へんなところに凝る男だ。

「フン。本当は怖いんだろ」
 その七五三野を嗤った男は、俺の隣に座っている。やはりダークスーツで上着を脱ぎ、ノーネクタイ。偉そうに脚を組み、メタルフレームの眼鏡と鋭い眼光。すっかり斜陽になりつつあるヤのつく業界で、いまだに安定したしのぎを稼ぎ出している食えないこいつの名前は兵頭。周防組の若頭という地位にあり、ついでに言うと、俺の……ええと……なんというかその……こ……いや、その……か……うーん……。

「怖くないと言っているだろうが」
「顔が引き攣ってるぞ、ヘタレ弁護士」
「内心で動揺しているのはそっちなんじゃないのか。極道者のくせに」
「怪談にビビって極道ができるか」
「弁護士たるもの、幽霊より怖いのは現実の人間だと熟知している」
「へえ。おまえみたいなヘタレエリート弁護士に、人間の怖さがわかるって?」
「ヤクザ者よりはな」
「言うじゃねえか。その口に花火でも突っ込んでやろうか?」
「ほう。脅迫罪で告訴してやろうか?」
「いいかげんにしなさい」

 ふたりをぴしゃりと止めたのは、我が事務所の精神的ボス、さゆりさんだ。黄色いムームーは社員旅行で沖縄に行った時も着てたやつだな……。ちなみに俺は夏の定番、アロハシャツ。可愛いシーサー模様だ。これ一度着たら、もうスーツなんか無理。
「いい大人が、いつまでも小学生のような口げんかをするもんじゃないよ。その辺でやめておかないと、あたしが本気の怖い話をするからね」
「わあ、さゆりさんの怖い話聞きたい!」
 アヤカがわくわく顔でねだり、智紀が「勘弁してくれよ!」と叫んだ。
「さゆりさんもうさっき喋ったじゃん!あれだけでも死ぬほど怖かったのに!!」
「まだとっておきのネタがあるんだよ……ふふ……。あたしが子供の頃はね、トイレが水洗じゃなくて、下に深ぁい穴を掘った、いわゆるボットン便所というやつで……」
「やめてくれぇぇぇぇぇぇぇ!」
 まだトイレの説明だけだというのに、智紀は両耳を塞いで半泣きである。その様子を見て、アヤカがビールを片手にまた笑った。
「トモって、わりと恐がりなんだねー。キヨもさっきから固まってるし」
「………………」
 キヨは本当にフリーズしていた。
 七五三野が「大丈夫か。息してるか?」と真顔で聞くが、反応がない。
 智紀が「おい」と声を掛けると、やっと震えながらも腕が動いて、智紀の小柄な身体をがばりと抱き締めた。ちょうど、怖がりの子供がぬいぐるみに抱き縋るような感じだ。
「いてて、馬鹿力出すなって……ったく、おまえ、俺より怖がりじゃん。死体とか、見慣れてんじゃねーの?」
 キヨの本業は特殊清掃業である。死体のあった部屋、もしくは死体そのものを見る機会もそれなりにあるはずだろうが――怪談の怖さはまた別らしい。股に尻尾を挟んだ大型犬のようにブルブルと震えつつ、
「し……死体は……死んでるけど、幽霊は死んでない……」
 とよくわからない返答をした。
「え、幽霊も死んでんだろ。死んでるから化けて出るんじゃん」
「生き霊っていうのもいるよー。あたし、生き霊ネタでいいの持ってるよ!」
「アヤカ姉は、もういいって!!」
 怖がる智紀をからかい、アヤカは楽しそうだ。

 俺もさっき、一応持ちネタを披露したものの、みんなの恐がり方はいまひとつだった。ネットから仕入れた怪談では、リアル感に乏しかったようだ。
 ついでに言うと、俺の話し方ってあんまり怪談向きじゃないんだよね……なんかこう、交渉人としての滑舌のよさとか、はきはきした感じは怪談にはいらないんだなあ。むしろ、途中で口籠もるくらいがちょうどいいのかも。

 今夜の会を俺なりに観察したところ、一番の怖がりはキヨだ。ぶっちぎりのトップ。智紀も結構な怖がりだが、はっきり口に出して「怖ぇぇ!」と言える分、キヨよりは怪談を楽しめているのかもしれない。七五三野も、実はそこそこ怖がりである。ただし「科学的に検証できない事象は認めない」というポリシーがあるので、頑として幽霊の存在を認めない。認めはしないが、怖いものは怖いのである。もちろん、犬猿の中である兵頭の前では口が裂けても本音は言わないだろう。

 では、その兵頭はどうなのか。
 ……うーん、よくわかんないんだよねー。

 怪談を聞く顔は平常運転の無愛想で、楽しんでいるという感じでもない。かといってビクリだのギクリだのというリアクションも見せない。しいたけと怖い話、どっちか嫌いか聞かれたらこいつは何て答えるのかな……。
 ちなみに兵頭のボディガードである伯田さんも来ている。これまた安定のニコニコ顔で座っていて、怪談を怖がる様子はついぞなかった。つきあいのいい人なので「恐ろしいですねぇ」と肩を竦めたりはするのだが、そんな平穏な顔で言われても……。さゆりさんも同じで、ちっとも怖がるそぶりを見せないどころか、騒ぐ若者たちの様子を微笑ましく見守っている。アヤカに至っては、怪談が楽しくて仕方ないという感じだ。女子強し。

 え、俺?
 どうかなあ。俺はそんなに怖がりじゃないと思う。まあ、ぜんぜん平気ってほどでもないけど。
 極端な怖がりだったらこんな古びたビルにひとりで住めないって。夜中にガタピシいうのなんてフツーにあるし。正直、幽霊よりGのつくあの昆虫の出現のほうが怖いかもな……。アレ出てくると、俺叫ぶもん。飛ばれた日にはもう泣きそうになる。以前、中型のアレが出現した時、さゆりさんがごく冷静なまま丸めた新聞紙でバシッて一撃して、無言のままササッて片づけて…………俺はもう少しでさゆりさんにプロポーズしそうになった。

「あと話してないの誰だっけ? あ、兵頭さんだ! 兵頭さんの怖い話聞きたぁーい」
 はしゃぐアヤカに、兵頭はつまらなそうな顔で「持ちネタがない」とビールを煽る。
「ひとつくらいあるでしょ、怖い話」
「業界的な怖い話なら山ほどあるぞ」
「それはだめだよう……兵頭さんのそういう話はシャレになんないもん。ねえ、伯田さん?」
 アヤカに聞かれて、伯田が「ですねえ」と微笑む。
「ではここは、私が代打に出ましょうか」
「えっ、伯田さんが?」
 驚いた俺に、伯田さんは「私だって、怪談ネタのひとつくらいはあるんですよ」と答える。
「まあ、たいして怖い話ではありませんが……」
「あっ、そのほうがいいっ、あんま怖くないほうがいいよ! 伯田さんにしてもらおうぜ!」
 智紀が強く推し、キヨがカクカクと頷いている。
「じゃあ、今夜のシメは伯田さんのマイルド怪談でお願いしよう。みんなが心安らかに眠れるようにな」

 俺がそうまとめ、かくして伯田さんは、怪談には似つかわしくない穏やかな声で語り出した。





「うえーん、アタシ今日ひとりで寝るのやだよう~」
「しょうがないねえ。じゃ、アヤカちゃんはうちに泊まっていきなさい」
「ありがとう、さゆりさん……。朝、だし巻き卵食べたいな……」
「はいはい。そこで固まってるふたりはどうするんだい?」
「……っ、お、俺もさゆりさんとこ泊まっていい……? 親父とお袋、今旅行中でひとりなんだよ……」
「トモはキヨのとこに行くんじゃないの?」
「なに言ってんだよアヤカ姉っ! こんなガクブルしてる奴といたら、余計怖くなるだけじゃん!」
「…………っ、お、置いてかな…………俺も……っ」
「はいはい、じゃあトモ坊とキヨもうちにおいで。ただし男子は雑魚寝だよ」
「あの……さゆりさん、俺も……」

 一緒に泊まりたい、と頼みかけた俺に向かって、さゆりさんは「いくらなんでも定員オーバーですよ、所長」と、呆れたような声を出す。そっか……そうですよね……ううう、諦めます。

 ちりーん。

 また風鈴が鳴って、ほぼ全員が「ひいっ!」と震え上がった。七五三野が慌てて「て、撤去するっ」と風鈴を取り去る。

 怖かった。
 ……ホントに、怖かった(涙)
 怪談というのは、ニコニコした人がいつも通りに喋るのが一番怖いのだと俺は学んだ。ネタとしてはそう珍しくないタイプだが、語り口がものすごく巧みだったのだ。稲川純次と勝負しても勝つんじゃなかろうか。

「ううう……絶対夢に見ちまうよ……幽霊だと思っていた女が実はストーカーで、やっと追い払ったと思ったら、今度は本当に死んで、なのにまたピンポーンって来るなんて……絶対あの女から逃げられないじゃん……どうしたらいいんだよ……ストーカーはカギあけられないけど、幽霊ならなんでもできちゃうんだぜ……」
「や……やめて、トモ……思い出すから……やめ…………」
 智紀とキヨ、そしてアヤカは、さゆりさんの小さな背中に守られるようにして出て行った。七五三野も青ざめたまま「す、少しだけ、怖かった」と意地を張りつつ帰り、事務所には俺と兵頭、そして伯田さんの三人になる。

「で?」
 さゆりさんがいなくなると、兵頭はさっそく煙草を咥える。本数はだいぶ減ったが、まだ禁煙には至っていない。
「先輩はどうすんですか? このクーラーの壊れかけた部屋で、伯田さんの話を思い出しつつ、ひとりで寝ます?」
「…………」
「俺としては、先輩がどうしてもってんなら、ウチに招待してもいいんですがねェ」
「……おまえ、やな奴だな……」
「まあ、ご存じのように、ベッドはひとつしかありませんけど」
「…………行かない。ここでひとりで寝るっ」
「またそんな意地を」
「うるせえ! くそう、幽霊がなんだってんだ。幽霊は俺を殴ったり、監禁したり、薬飲ませたり、騙したり、陥れたり、銃で狙ったりしないぞっ。俺にそういうことしたのは、ぜんぶ生きてる人間じゃないかっ」
 俺がキレかけて言うと、兵頭はしばし考えて「……確かに」と頷いた。そこで納得されちゃう俺の人生ってどうなのよ!

「まあまあ、芽吹さん」
 伯田さんが苦笑いで俺を宥める。
「要するに、芽吹さんに来て欲しいということですよ。うちの若頭は素直じゃなくて申しわけない」
「なぁんだ。兵頭、おまえも怖いのか」
「怖くねえ。……伯田さんも、なに言い出すんです」
「落ち着かない時に、やたら脚を組み替える癖は直ってませんねえ」
「…………」
「へぇー。ビビってんのか、おまえもー」
 俺がニヤニヤして言うと、兵頭はプイッと顔を逸らせて「さっさと支度しろ」と偉そうに言う。支度もなにも、俺のお泊まりグッズはおまえんちに完備してあるから、身体ひとつでいくだけじゃん。
 そっかー、兵頭もそれなりに怖かったのかー、じゃあ仕方ないから泊まりに行ってやろう。俺って優しいな!

 いつもならばマンションまで伯田さんが車で送ってくれるのだが、今夜は徒歩で向かうことにして、先に帰ってもらった。お盆が過ぎて、東京の酷暑も多少はましになっている。風も吹いてきて、歩くには悪くない夜だ。

 ちりーん。

 どこかで風鈴が鳴った。
 さっきまで事務所で聞いていたのとは、また少し違う音色だ。微かな音は、俺たちの鼓膜を優しく揺らした後、夏の夜の空気に溶けるように消えていく。この下町の大イベント、花火大会も先週すんでしまったし……ああ、だんだんと夏が終わっていくんだなあ。

「金魚飼いたいな……」
 ぽつりと零すと「なんで」と兵頭が聞く。俺たちは、散歩でもするようにのんびりと歩いていた。
「俺はあんたに、そんなさみしい思いをさせてますかね?」
「はあ? さみしいなんて言ってないだろ。可愛いから飼いたいんだよ」
「可愛いのなら、いるじゃないですか」
 真顔で自分を指さし、兵頭が図々しくも言う。
「……コモドドラゴンのほうがまだ可愛い」
「ひでえな」
「まあ、怪談を怖がるあたりは可愛いけどな」
「…………先輩、あれフィクションだと思ってるんでしょう?」
「え」
 兵頭は意味ありげに周囲を見回し、低い声で続ける。
「俺は何度か聞いて知ってんですよ……。あれ、伯田さんがフィクションっぽく喋ってますけどね、実際んとこは……」
「ちょっ、やめっ……やめてやめてやめてッ、そういう、映画のエンディングクレジットのあと、終わったなーって油断した瞬間に、超絶怖いオチが入る、みたいな演出はいらないから!」
「演出もなにも、本当の……」
「わーーーぎゃーーー聞かない聞かない聞かない!!」
 俺がマジで嫌がって両耳を塞ぐと、兵頭がプッと噴き出す。
 このやろ……騙しやがったな!
 くっそー、許さん! 俺は兵頭の尻に膝蹴りを入れようとしたのだが、兵頭はたくみに身体をかわして笑うばかりだ。

「こらっ、逃げんなっ!」
「はは……。蹴ったほうがよろけてどうすんですか」
「おまえが逃げるからだろっ。その尻に華麗なる蹴りをキメさせろ!」
「周防組の若頭を蹴ろうって? たいした度胸だ」
「勇者と呼んでいいぞ!」
「その勇者を組み敷くのが誰か知ってますか?」
 にやつく男に、今度こそ蹴りを入れてやった。もちろん、たいして力は入れてないので、兵頭は笑いながら歩き続ける。そのうち、俺もつられて笑えてくる。はたから見たら、いい大人が酔っ払ってふざけているだけだろう。実際、多少はビールの効力もある。

 ちょっと暴れたら、息が切れた。
 まったく、寄る年波ってやつだな……。足を止めて空を見上げると、月が水墨画のようにぼんやりと浮かんでいる。兵頭も同じように立ち止まって、狭苦しい東京の空を見た。

 狭いのは空のせいじゃない。この街に建物が多すぎるだけ。
 その建物の中、ひとつひとつの部屋に誰かがいて、暮らして、生きている。
 家族と。
 恋人と。
 あるいは友人なんかと。

「週末、久しぶりに両親の墓に行ったんだ」
 前置きなく告げたが、兵頭はとくに驚いた様子もなく「へえ」と返しだけだ。
「線香あげて、近況報告してきた」
「すてきな彼氏ができました、って?」
「……うちの両親が、心配のあまり化けて出そうだ」
「そしたらきちんとご挨拶しますよ。息子さんを、美味しくいただいてますってな」
 俺はもう一発蹴りを入れようとしたのだが、兵頭はすかさずよけてしまった。おかげでこっちがたたらを踏む羽目になる。

 最近、やっと両親の墓参りをためらわなくなった。
 素直な気持ちで手を合わせられるようになった。
 俺を置いていってしまった父と母に、もうなんの恨みもないとはいえない。言いたい文句は山ほどあって、だから俺は、墓の前でずっとブツブツ呟いている。そういう時間を持てるようになったこと自体が、俺にとっては進歩なのだ。

 ……けれど。

「あいつの墓には、なかなか行けないな……」
 独り言のように呟く。
 兵頭には聞こえたはずだが、返事はない。聞こえないふりをしているのは、こいつなりの優しさなのか、あるいはうまい言葉を思いつかないからか。

 俺が死に追いやった、俺の親友。
 その墓に行く心構えが、いまだに難しい。あいつの眠る場所に行って、ちゃっと向き合って話したいと思うのに……向かう足は重くなる。
 いっそ、幽霊になって出てきてくれればいいのに。
 そうしたら、俺はやっとあいつに謝ることができるのに。

 風がやむ。
「アツ」と忌々しげに兵頭が言う。
 そうだな、暑いな、夏だからな。
 あいつは夏のよく似合う男だった。夏になるたびに、俺はあの海を思い出す。ふたりで行った、たいして綺麗でもない海を。

 ふいにスマホが鳴った。

 俺のポケットの中からだ。
 発信番号は……非通知。普通の人なら無視するだろうが、俺のスマホは仕事用でもあり、依頼人は非通知設定でかけてくる場合も多いので無視はできない。
「はい、芽吹ネゴオフィス…………もしもし? すみません、少し電話が遠いようで……はい? え、今ですか? いや、今日はもう事務所には…………あの、もしもし?」
 切れちゃったよ……困ったなあ。
「なんなんです?」
「新規の依頼人みたいだ。事務所の前まで来てるから、話を聞いてくれって……出直してもらおうと思ったんだけど、なんか接続悪くて、向こうの声も聞き取りにくいし、こっちの声もいまいち届いてないみたいだった」
「もう深夜ですよ。無視していいんじゃないですかね?」
「そうもいかない。こんな時間に直接来るなんて、それだけ追い詰められてるんだろ」
「……ったく、コンビニみたいな交渉屋だ」
「先帰ってていいぞ」
「依頼人の話が早く終わるよう、俺がプレッシャーを与えてやります」
「過剰なプレッシャーはウチを廃業に追い込むから、おまえは外で待っててくれ」

 そんなふうに喋りつつ、俺たちは来た道を早足で引き返した。
 しばらくして事務所の入っているビルの前まで戻ったわけだが……誰もいない。非通知だったから、折り返しようもないしなあ。
 五分待ち、十分待ったが、やっぱり現れない。

「おかしいな……」
「イタズラだったんじゃ?」
「かなァ」
「ふてえ野郎だ。先輩にイタズラしていいのは俺だけだってのに」
「おまえもするな」
「俺の生き甲斐を奪う気ですか」

 兵頭の生き甲斐はどうでもいいとして、イタズラ電話というのはあり得る話だ。交渉人なんて商売、知らず知らずのうちに敵を作ってたりもするからな……。まあ、この程度のイタズラなら可愛いもんですよ。誘拐されたり監禁されたりに比べればね……。

「先輩、もう日付が変わりますよ。行きましょう」
 兵頭に急かされ、俺は頷く。いつまでも待ってても埒が明かない。緊急ならば、また連絡が入るだろう。

 と、今度は兵頭のスマホが鳴った。

 発信者を確認して、すぐ出た兵頭が「はい。なんかありましたか」と応じる。この口調だと、相手は伯田さんだな。
「……は? いや、生きてるから電話に出てるんですが……え? 先輩ンとこのビルの前に…………どうしたんです、伯田さん。落ち着いてくださいよ」
 えっ、伯田さんが落ち着いてないの!? あの伯田さんが!?
 それって超レアじゃないか。俺は驚いて、兵頭を見る。スマホを耳に当てたまま、兵頭の目が見開かれた。あれれ、おまえがそんなふうに驚く顔も、なかなかにレアだな。

「……爆発? マンションが?」

 兵頭の言葉に、今度は俺が目を見開く番だった。







「襲撃かと思って、肝を冷やしましたよ」
 伯田さんが苦笑まじりに語る。

「ウチの若頭に恨みのある人間は、数え切れないほどいますからね。その中で、頭のイッちまったのが爆弾抱えて突撃してきたのかと。あの夜は芽吹さんもマンションにいると思っていたので……本当に、心臓が止まるかと」
「すみません、俺の心配までしてもらっちゃって」
 麦茶を出しながら言うと、伯田さんは「ご無事でなによりです」と微笑む。
「仮に兵頭さんが無事だったとしても、芽吹さんに怪我でもあった日には……考えただけでゾッとします。どこぞの組織の刺客だったら、兵頭さんはそいつらを八つ裂きにしたあとミンチにして、ハンバーグ作ってブタに食わせたあと、そのブタをベーコンにして、組織の上部に送りつけるくらいのことはしかねませんからねえ」
「ニコニコしながら怖いこと言わないでください……。でも、事故なのは間違いないんでしょう?」
「ええ、駐車場の電気系統が原因のようです」

 そう、爆発事故なのである。事件ではなく。

 兵頭のマンションの駐車場にあった電気系統から発火、たまたま近くに駐めてあった車が可燃性物質を積んでいたため、爆発が発生した。
 被害のほとんどは車だったが、唯一、駐車場の真上にあった兵頭の部屋はかなりのダメージを食らったそうだ。リビングの床が一部損壊し、崩れ落ちてしまったと聞いている。
 もしも俺たちがそのリビングにいたら……やばかったのだ。火傷、怪我、場合によっては命の危険もあったかもしれない。しかも住居被害が兵頭の区画だけとなれば、周防組に恨みを持つ者の仕業と考えてしまうのも、無理はない。正直、俺だって最初はそう考えた。しかしあくまで事故だと聞いて、胸をなで下ろしているところだ。

「しかしまあ、兵頭さんが神経質になってましてね。敵対組織に不穏な動きがないか、徹底的に調べることになりました。周防組長も、それで気が済むなら好きにしろと仰って……ああ、当面、兵頭さんは組長のところでお世話になるそうです」
「あのマンション、出るんですか?」
「修繕は管理側が保険でまかなってくれますが……やはり集合住宅はなにかとやりにくいですからね。これを機に、家を建てればいいって話も出てますな」
「けど……そっちの稼業が家建てるのは簡単じゃないでしょ?」
 俺が聞くと、伯田さんは「銀行は私たちに、手も金も貸してくれませんからなあ」と笑う。
「ですがね、周防組長がいくつか不動産は所有しているんです。そこを譲り受けることになると思います」
「へー。あいつが一国一城の主ねえ……」
「そのうち、図面持って相談に来ると思いますんで、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げられ、俺は戸惑う。
「いやいや。俺、建築のことはぜんぜんわかんないですよ?」
「建築というか、間取りですとか」
「え?」
「兵頭さんは、自分の部屋はいらないタイプなんですよ。リビングがあればいい、と。でも芽吹さんは書斎が必要だろうと言ってましたねえ。あと、風呂はとにかく広くしたいそうです。ジャグジーについては、芽吹さんが欲しいなら導入する、と」
「……は?」
「どうしても舎弟が出入りすることになるので、寝室は防音にするそうです。もちろん、自宅周囲のセキュリティも万全になるでしょう。上空にドローンが飛んだら、撃ち落とされるかもしれませんな。ははは」
「……いや、あの……俺はあいつと住むつもりはな……」
「芽吹さん」
 俺の言葉に割り込んで、伯田さんはまた微笑む。
「人生は思ってるより短い。あなたはそれを、よくご存じだと思いますが」

 そう告げられて、返す言葉に迷った。確かに、俺はよく知っている。いまこうして生きている時間は、決して永遠のものではないと。
 でもなあ……。
 かといって、兵頭と同居っていうのはなあ。
 俺は兵頭と一緒に生きたいと思っているけど、それは同じ場所に住むとか、一緒にいる時間を長く過ごすとか、そういうのとも少し違うように思うんだ。一緒に暮らしたら、きっと家族になる。でも、俺は兵頭と家族になりたいわけじゃない気がする。うーん……うまく言えないけど……。

 もしかしたら、俺は怖いのだろうか。
 家族ってものを、うまくやっていく自信がないのかもしれない。なにしろ自分の家庭環境がお世辞にもいいとは云えなかったわけだし……。
 兵頭との距離が近くなりすぎたら、今の関係が壊れてしまうんじゃないか。
 無意識のうちに、そんなふうに怯えているんだろうか。だとしたら、たいがい臆病な男だな、俺も……。

 伯田さんが帰ってからしばらくして、兵頭がやってきた。
 ネクタイを緩めながら「やっぱりただの事故ですね」と報告する。
「そっか。抗争勃発じゃなくてよかったよ」
 俺は小さな冷蔵庫の前に立ち、奴のために麦茶を出そうとした。
 ふいに、背中から抱き締められて動けなくなる。
 汗に混じった兵頭の香りに、俺はたちまち包まれ……少しだけ驚いていた。こいつって、時々ものすごく勘がいいんだよな。さっきまで俺が、兵頭と自分の関係性についてグダグダ考えて、ちょっとした不安を感じていたことを、なぜか察知する。まるで野生動物みたいに、ある種の空気を読む。

「おい、暑い」
 そしてこんな時、俺はいつも照れくさくてこんなもの言いをする。

「俺も暑いですよ。ここのクーラーは、ほんとにクソ効かねえ」
「なら抱きつくなよ」
「じとっ、と暑いときに抱きつくのがまたいいんです」
「おまえ寒くても抱きつくじゃないか」
「まあ、そのために生きてるようなものですから」
 バカを言いながら、俺の首筋のにおいを嗅いでやがる。身体を捩って逃げ出しつつ「嘘つけ」と眼鏡男を軽く睨んだ。
「おまえは仕事のために生きてるんだろ、このワーカホリックめ」
 兵頭は俺のさしだした麦茶を受け取って「それは先輩だって同じでしょうが」と言い返してきた。
「……まあ、わりとそうだけど」
「わりと?」
「いいんだよ。仕事好きなんだから。おまえだって、仕事を好きな俺が好きなんだろ」
 なかばヤケになって言うと、兵頭はちょっと驚いた顔を見せ、そのあとで「先輩も言うようになりましたね」と笑う。 その少し照れたような笑顔はたぶん……俺しか知らないだろう兵頭の顔で、もしかしたら本人も、自分にこんな表情があるのは知らないのかもしれない。

 誰も知らない兵頭を、俺は知っている。
 それは奇妙なほど、俺の心を満たしてくれる感覚だった。きっと、兵頭もたくさん知っているのだろう。俺が知らない、俺の顔を。

 兵頭が半分に減った麦茶のグラスをデスクの上に置く。
 なにも言わずに俺を見る。

 言葉もなく、俺は兵頭に近づいた。
 自分から口づける。
 兵頭はやや顔を傾けて、俺を受け入れてくれる。
 温かな唇。
 ほのかな煙草のにおい。

 時々――胸のあたりに小さな穴があいて、そこから風が忍び入り、小さな痛みを生むことがある。そんな時どうしたらいいのか俺はもう知っている。兵頭の大きな手が俺の背中に当てられて、それは小さな穴を塞ぐ。俺の中の痛みは完全に消えはしないけれど、別の感覚に変換される。たぶんそれは、せつない、という感覚だと思う。

 兵頭に触れるのが好きだ。
 兵頭に触れられるのも好きだ。
 好きというか、もはや必要になっているんだろう。原因不明のぼんやりした体調の悪さを感じる時は、たいてい兵頭に一定期間会っていない。そんなふうになった自分に驚くし、依存じみた感覚をどうかと思うこともあるけれど……でも、今更だよな。

 俺という人間には、どうしようもない亀裂がある。
 そして兵頭は、そこに深く食い込んだ楔だ。楔を抜いてしまえば、俺はもう自分を保っていられないだろう。たちまち崩れ落ちてしまうんだろう。
 ……ま、それをこいつに言ったことはないけどね。

 「……そういや、電話番号わかりましたよ」
 キスのあと、兵頭が俺の腰に手を回したまま言う。ちょっ……こら、尻撫でるな。
「あの謎の電話? え、どうやったんだ?」
 爆発のあった日、俺にかかってきた新規依頼の電話だ。非通知でかかってきたわけだが、電気通信事業者は番号を把握している。もちろん「教えて」と言って教えてくれるものではない。
「人には言えないコネってのが、それなりにありましてね……。公衆電話からでした」
「へえ。じゃ、結局誰だったのかわからんな」

 考えてみれば、あの電話に俺たちは救われたのだ。
 あんな時間に呼び出して、すっぽかされたのだから困った依頼人なわけだが……あの夜に限っていえば、命の恩人ということになる。おそらく、急に気が変わって帰ってしまったのだろうけれど、縁があったら礼くらい言いたいものだ。

「……ただ……ちょっと……」
 兵頭が珍しくなにか言いかけ、言葉を止める。
「なんだよ」
「いや……公衆電話だったんですが……どうにも奇妙で」
「なにが」
「ないはずなんですよ」
「え?」

 兵頭はやっと俺の身体を放し、デスクに腰掛けると少し眉を寄せた。

「今時、公衆電話はずいぶん減りましたからね。俺が調べ当てた番号は、以前は公衆電話として存在してたものの、五年前にもう撤去されてた」
「…………」
「つまり、あるはずのない公衆電話からの、電話だったんです」
「…………おまえ……やめろよ、そういうの…………怪談大会はもう終わったんだからさ……」
 背中がぞわっ、てなっちゃったじゃないか。
 実話に絡めた怪談って、ほんとタチ悪いよなあ。
「俺も、最初はなにかの間違いじゃないかって、調べ直してもらったんですがね。でも、確かにもう、その公衆電話はない」
「やめろってば」
「駅前ならともかく、なんもない海沿いの国道ですからね。まあ、撤去されてて当然……」
「もー! 怖いからやめろって………………ん?」

 海? 
 海沿いの……国道?

「……それ……場所、どこ?」
 そう聞くと、兵頭は「千葉ですね」と答え、さらに詳しい地名を言った。房総半島にある、海沿いの町。

 俺は言葉を失った。
 脳裏に蘇る、光景。
 夏。
 あの夏。

 無理やり連れ出された貧乏旅行。
 歩いて歩いて……やっと辿り着いた、房総の灰色の海と、それが青く生まれ変わった時。
 光る波飛沫。
 はしゃぐあいつの、広い背中。

「先輩?」
 兵頭が呼んでいるのがわかったけれど、返事ができない。
 まさか、そんなバカなことがあるもんか。
 あいつが電話してくるわけないだろ。あいつはもう死んでるんだ。俺があいつを……ギリギリだったあいつを追い詰めて、殺したみたいなものだ。

 ――芽吹。

 あいつの声、よく思い出せない。
 あの電話はどうだった? 似ていたか? 雑音がひどかったんだ。潮騒みたいな雑音で、よく聞き取れなかった。

「先輩、どうしたんです」
 兵頭が再び俺を抱き寄せる。
 少し湿った胸の中で、俺は自分が震えているのに気がついた。なんでだろう、震えが止まらない。べつに怖いわけじゃない。たとえばあいつが幽霊になって出てきても、俺は怖くはないだろう。むしろやっと会えたと思うだろう。あいつが俺を連れて行きたいなら、そうすればいいと思う。俺は嫌がったりはしない。
 ただ、最後に……兵頭の顔を見てから逝きたいと頼むかもしれないけれど。

 ――バカだな、芽吹。

 耳の奥で、蘇る。
 そうだ。この声だ。若林の声。
 笑いながら、俺の横を歩いていたあの頃。

 おまえなのか。
 おまえが、電話してくれたのか。 

「大丈夫です」
 俺を抱き締めて兵頭が言う。なぜ俺が震えているのかもわからないまま、それでもそう言う。俺を安心させるために。
「うん、大丈夫だ」
 だから俺もそう言った。兵頭を安心させるために。
「大丈夫だから……もう少しだけ、こうしていてくれ」
 返事の代わりに抱きしめる腕の力が強くなる。

 ごめんな、兵頭。
 おまえの腕の中で他の男のことを考えるなんて悪いとは思うけど、今だけ少し許してくれ。死んでしまった親友のことを考えるのを、許してくれ。
 いい奴だったんだ。
 本当にいい奴だったんだ。おまえに紹介したかった。性格はかなり違うけど、もしかしたら結構気があったんじゃないかな。おまえの知らない俺を若林はたくさん知っていて……ああ、おまえ、嫉妬するかも。そんなおまえを若林はきっと面白がる。三人で……いや、七五三野も入れて、四人で酒を飲みたかったな。

 泣くのは我慢した。
 いつまでも泣いていると、あいつはきっと心配するだろうから。
 半笑いの困った顔で「バカだな、芽吹」と言うだろうから。

 いつか、またあの海に行こう。
 最初はひとりで。
 次は兵頭を連れて。

 なにがあるわけでもない、国道沿いの海岸。
 波の音。
 足裏に砂の感触。


 親友と過ごした、夏の海。







お読み頂き、ありがとうございました。
交渉人シリーズをご愛読くださっている、すべての読者様に愛を込めて。
2015年8月27日 榎田尤利

※写真はフリー素材をお借りしました。
※ご感想など、お気軽にコメント欄にどうぞ(^^)