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スイカ

※「この春、とうに死んでるあなたを探して」のおまけ掌編です。本編をお読みになったあとにご覧になることをおすすめします。筑摩書房で発行された際、カバー裏にこっそり印刷されていたものです。
文字数制限がなくなったので、ちょっとだけ加筆修正しました。




海に行けなかったんだ、と彼は言った。

「夏休み、海行ってない。じいちゃんの具合よくなくて。ばあちゃん、看病で忙しかったし。サトルと行こうかって話したんだけど……千葉のほうとか。でも、子供だけじゃ危ないからだめって言われて。もう中一なのにさあ。勝手に行っちゃうって手もあったけど、金ないし、ばあちゃんに心配かけるのも、なんかね……。まあ結局、海には行かなかった。べつに、だからどうって話じゃないけど。海なんか、いつでもあるし。海逃げねえし。……区民プールなら行ったよ。サトルと二回行った。でも、区民プールっていろいろうるさいんだ。飛び込んだたけでも怒られるし、ビーチボールとか持ち込み禁止で…………つまり、こいつの出番がなかったわけです」

 膝の上、スイカをデザインしたビーチボールを載せ、彼は真顔でそう説明した。この真顔は作ったものではない。この生徒はいたって真剣に、事情を説明しているのだ。大事そうに抱えられたスイカのボールは、ギュウと圧迫されて少し形が歪む。本当は海に行きたかったのだと、言いたげに。

「だからって、転校生にそれをぶつけていいわけないでしょ?」
 私の言葉に「ウン」と頷く。

「まさか鼻血出すとか思わなくてさー。……なんであんなことしたんかな。自分でもよくわかんないけど、面白そうって思っちゃって。俺はわりと面白かったけど、あいつはきっと面白くなかったよね。けど、そう気がついたのは、あとからでさ。いつもそうなんだ。どうして投げる前に気がつけないんだろう?」

 大きく目を見開き、心底不思議そうに言うものだから、私はもう少しで笑い出しそうになった。けれど教師としては、厳しい顔でいるべきところだ。あれは危険行為なのだから。
 この子はなにかにつけ、思いつきや勢いで行動を起こしてしまいがちだけれど、反省がないわけではない。友達がいじめられればかばう正義感だってある。なによりこの真っ直ぐに人を見る大きな目が、彼の性格の素直さを表していた。まともに見つめられると、こっちが照れくささを感じるほどだ。とても整った面立ちなので、数年後にはハンサムな男子になっていることだろう。

 頭よさそうな奴だったね、と彼は言った。

「俺、あんまり頭いいヤツって好きじゃない。バカにされるしさ」
「矢口くんがそうだとは限らないわよ」
「まあね。でも、頭のいいヤツが俺のことバカにする気持ちも、ちょっとわかるんだ。自分が楽勝でできることができないヤツを見てると、なんかイライラするもんな……。俺だって、もし俺よりバカなヤツがいたら、そいつのこと、すげえバカにするかも」
「小日向くんはしないんじゃない?」
「なんでわかるんですか」
「そういう想像できる子は、きっとしない」
「……そんなもん?」
「うん。そんなものよ」

 目線をそらさずに肯定すると、彼は小さな声で「そっか」と言い、ちょっと照れたように、少しのあいだ俯いた。
 やがてフッと顔を上げ、
「あいつ、矢口、大丈夫かな。鼻血止まったかな」
 と、今度はそわそわし出す。

「気になるなら医務室に行ってみれば? もう大丈夫そうだったら、一緒に教室に戻ってあげて」
 私の言葉に彼は大きくコクリと頷き、ビニールのスイカを抱えたまま立ち上がる。ああ、また上ばきの踵を踏んづけちゃって……。
「それは先生が預かります。あと、上ばきちゃんと履いて」
 両手を差し出しながら言うと、素直に「はい」と言う。
 どこか恭しく、ビーチボールが差し出された。
 まん丸でボヨンとしたスイカに、彼の手の温度が移って少し温かく、若い汗の湿り気を感じる。

 もぞもぞと上履きを直し、面談室を出て行く前、彼は一度こちらを振り返った。
 そしてやや早口に、
「あの、先生。ありがとう」
 と言う。なにに対する礼なのか、曖昧なようでいて、けれどはっきり伝わってくる感情も確かにあって――私の胸がふわふわと嬉しくなる。
 だから微笑み、軽く手を振って見送った。

 新しい友達を迎えに行った、私の愛しい生徒を。


-END-


お読みいただき、ありがとうございました。
「この春、とうに死んでるあなたを探して」
は3/9に文春文庫として刊行されます。書きおろしもありますよ~!

この春